け、又浮き上がって汐を吐いた。端艇は次第に遠くなった。フランス水兵の死者は総数十三人で、内一人が下士であった。
 そこへ杉が駆け付けた。そして射撃を止めて陣所へ帰れと命じた。両隊が陣所へ引き上げていると、隊長二人を軍監府から呼びに来た。なぜ上司の命令を待たずに射撃したかと杉に問われて、両隊長は火急の場合で命令を待つことが出来なかったと弁明した。勿論《もちろん》端艇から先ず射撃したので、これに応戦したのではあるが、土佐の士卒は初からフランス人に対して悪感情を懐《いだ》いていた。それは土佐人が松山藩を討つために錦旗を賜わって、それを本国へ護送する途中、神戸でフランス人がその一行を遮《さえぎ》り留め、朝廷と幕府との和親を謀《はか》るためだと通弁に云わせ、錦旗を奪おうとしたと云う話が伝わっていたからである。
 杉は両隊長に言った。とにかくこうなった上は是非がない。軍艦の襲撃があるかも知れぬから、防戦の準備をせいと云った。そして報告のために生駒を外国事務係へ、下横目一人を京都の藩邸へ発足《ほっそく》させた。
 両隊長は僅《わず》か二小隊の兵を以て軍艦を防げと云われて当惑したが、海岸へは斥候《せっこう》を出し、台場へは両隊から数人ずつ交代して守備に往くことにした。そこへこの土地に這入った時収容して遣《や》った幕府の敗兵が数十人来て云った。
「若しフランスの軍艦が来るようなら、どうぞわたくし共をお使下さい。砲台には徳川家の時に据《す》え付けた大砲が三十六門あって、今岸和田藩主岡部|筑前守長寛《ちくぜんのかみながひろ》殿の預りになっています。わたくし共はあれで防ぎます。あなた方は上陸して来る奴を撃って下さい」と云った。
 両隊長はその人達を砲台へ遣った。そのうち岸和田藩からも砲台へ兵を出して、望遠鏡で兵庫方面を見張っていてくれた。
 夜に入って港口へフランスの端艇が来たと云う知らせがあった。しかしその端艇は五六艘で、皆上陸せずに帰った。水兵の死体を捜索したのだろう。実際幾つか死体を捜し得て、載せて帰ったらしいと云うものもあった。

 十六日の払暁に、外国事務係の沙汰《さた》で、土佐藩は堺表《さかいおもて》取締を免ぜられ、兵隊を引き払うことになった。軍監府はそれを取り次いで、両隊長に大阪蔵屋敷へ引き上げることを命じた。両隊長はすぐに支度して堺を立った。住吉街道を経て、大阪|御池通《み
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