土居の三人が発熱した。土居の妻は香美郡夜須村《かがみごおりやすむら》から、昼夜兼行で看病に来た。横田の子常次郎は、母が病気なので、僅《わず》かに九歳の童子でありながら、単身三十里の道を歩いて来て、父を介抱した。この二人は次第に恢復《かいふく》に向ったのに、川谷一人は九月四日に二十六歳を一期《いちご》として病死した。
十一月十七日に、目附方は橋詰以下九人のものに御用召を発した。生き残った八人は、川谷の墓に別を告げて入田村を出立し、二十七日に高知に着いた。即時に目附役場に出ると、各通の書面を以て、「御即位御祝式に被当《あたられ》、思召帰住御免《おぼしめしきじゅうごめん》之上、兵士|某《なにがし》父に被仰付《おおせつけられ》、以前之年数被継遣之《いぜんのねんすうこれをつぎつかわさる》」と云う申渡《もうしわたし》があった。これは八月二十七日にあった明治天皇の即位のために、八人のものが特赦《とくしゃ》を受けたので、兵士とは並の兵卒である。士分取扱の沙汰《さた》は終《つい》に無かった。
妙国寺で死んだ十一人のためには、土佐藩で宝珠院に十一基の石碑を建てた。箕浦を頭《かしら》に柳瀬までの碑が一列に並んでいる。宝珠院本堂の背後の縁下には、九つの大瓶《おおがめ》が切石の上に伏せてある。これはその中に入るべくして入らなかった九人の遺物である。堺では十一基の石碑を「御残念様」と云い、九箇の瓶《かめ》を「生運様《いきうんさま》」と云って参詣《さんけい》するものが迹《あと》を絶たない。
十一人のうち箕浦は男子がなかったので、一時家が断絶したが、明治三年三月八日に、同姓箕浦幸蔵の二男|楠吉《くすきち》に家名を立てさせ、三等|下席《かせき》に列し、七石三斗を給し、次で幸蔵の願に依て、猪之吉の娘を楠吉に配することになった。
西村は父清左衛門が早く亡くなって、祖父|克平《かつへい》が生存していたので、家督を祖父に復せられた。後には親族|筧氏《かけいうじ》から養子が来た。
小頭以下兵卒の子は、幼少でも大抵兵卒に抱えられて、成長した上で勤務した。
底本:「阿部一族・舞姫」新潮文庫、新潮社
1968(昭和43)年4月20日発行
1979(昭和54)年8月15日24刷
入力:j_sekikawa
校正:小林繁雄
2001年3月12日公開
2001年6月30日修正
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