又は実子のあるものは、その実父、実子も巳の刻半に出頭すべしと云うのである。南会所では目附の出座があって、下横目が三箇条の達しをした。扶持切米《ふちきりまい》召し放され、渡川限《わたりかわかぎり》西へ流罪《るざい》仰せ付けられる。袴刀《はかまかたな》のままにて罷《まか》り越して好いと云うのが一つ。実子あるものは実子を兵卒に召し抱え、二人扶持切米四石を下し置かれると云うのが二つ。実子のないものは配処に於いて介補《かいほ》として二人扶持を下し置かれ、幡多《はた》中村の蔵から渡し遣《つか》わされると云うのが三つである。九人のものは相談の上、橋詰を以て申し立てた。我々はフランス人の要求によって、国家の為めに死のうとしたものである。それゆえ切腹を許され、士分《さむらいぶん》の取扱を受けた。次いでフランス人が助命を申し出たので、死を宥《なだ》められた。然れば無罪にして士分の取扱をも受くべき筈である。それを何故に流刑に処せられるか、その理由を承らぬうちは、輒《たやす》くお請《うけ》が出来難いと云うのである。目附は当惑の体で云った。不審は最《もっとも》である。しかしこの度の流刑は自殺した十一人の苦痛に準ずる御処分であろう。枉《ま》げてお請をせられたいと云った。九人のものは苦笑して云った。十一人の死は、我々も日夜心苦しく存ずる所である。その苦痛に準ずると云われては、論弁すべき詞《ことば》がない。一同お請いたすと云った。
九人のものは流人として先例のない袴着帯刀《はかまぎたいとう》の姿で出立したが、久しく蟄居《ちっきょ》して体《からだ》が疲れていたので、土佐郡朝倉村に着いてから、一同足痛を申し立てて駕籠に乗った。配所は幡多郡入田村《はたごおりにゅうたむら》である。庄屋|宇賀祐之進《うがすけのしん》の取計《とりはからい》で、初は九人を一人ずつ農家に分けて入れたが、数日の後一軒の空屋に八人を合宿させた。横田一人は西へ三里隔たった有岡村の法華宗真静寺の住職が、俗縁があるので引き取った。
九人のものは妙国寺で死んだ同僚十一人のために、真静寺で法会《ほうえ》を行って、次の日から村民に文武の教育を施しはじめた。竹内は四書の素読《そどく》を授け、土居、武内は撃剣を教え、その他の人々も思い思いに諸芸の指南をした。
入田村は夏から秋に掛けて時疫《じえき》の流行する土地である。八月になって川谷、横田、
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