向いて並ぶ。フランス公使は銃を持った兵卒二十余人を随《したが》えて、正面の西から東に向いてすわる。その他薩摩、長門、因幡《いなば》、備前《びぜん》等の諸藩からも役人が列席している。
 用意の整ったことを、細川、浅野の藩士が二十人のものに告げる。二十人のものは本堂の縁から駕籠に乗り移る。駕籠の両側には途中と同じ護衛が附く。駕籠は幕の外に立てられる。呼出の役人が名簿を繰り開いて、今首席のものの名を読み上げようとする。
 この時天が俄《にわか》に曇って、大雨が降って来た。寺の内外に満ちていた人民は騒ぎ立って、檐下《のきした》木蔭に走り寄ろうとする。非常な雑沓である。
 切腹は一時見合せとなって、総裁宮始、一同屋内に雨を避けた。雨は未《ひつじ》の刻に歇《や》んだ。再度の用意は申《さる》の刻に整った。
 呼出の役人が「箕浦猪之吉」と読み上げた。寺の内外は水を打ったように鎮《しずま》った。箕浦は黒羅紗《くろらしゃ》の羽織に小袴《こばかま》を着して、切腹の座に着いた。介錯人馬場は三尺隔てて背後に立った。総裁宮以下の諸官に一礼した箕浦は、世話役の出す白木の四方を引き寄せて、短刀を右手《めて》に取った。忽ち雷のような声が響き渡った。
「フランス人共聴け。己《おれ》は汝等《うぬら》のためには死なぬ。皇国のために死ぬる。日本男子の切腹を好く見て置け」と云ったのである。
 箕浦は衣服をくつろげ、短刀を逆手《さかて》に取って、左の脇腹へ深く突き立て、三寸切り下げ、右へ引き廻して、又三寸切り上げた。刃が深く入ったので、創口《きずぐち》は広く開いた。箕浦は短刀を棄てて、右手を創に※[#「※」は「插」のつくりの縦棒が下に突き抜けている、184−4]し込んで、大網《だいもう》を掴んで引き出しつつ、フランス人を睨《にら》み付けた。
 馬場が刀を抜いて項《うなじ》を一刀切ったが、浅かった。
「馬場君。どうした。静かに遣れ」と、箕浦が叫んだ。
 馬場の二の太刀は頸椎《けいつい》を断って、かっと音がした。
 箕浦は又大声を放って、
「まだ死なんぞ、もっと切れ」と叫んだ。この声は今までより大きく、三丁位響いたのである。
 初から箕浦の挙動を見ていたフランス公使は、次第に驚駭《きょうがい》と畏怖《いふ》とに襲われた。そして座席に安んぜなくなっていたのに、この意外に大きい声を、意外な時に聞いた公使は、とうとう立ち
前へ 次へ
全21ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング