以は、山城河岸の店から受ける為送《しおくり》の補足を売文の一途に求めた。河竹新七の紹介に由って、市村座の作者になり、番附に梅阿弥の名を列する。梅の本の名を以てして俳諧の判をする。何廼屋《なにのや》の名を以てして狂歌の判をする。注文に依って店開の散しを書く。此等は固《もと》よりこの時に始まったのではない。文淵堂《ぶんえんどう》所蔵の「狂歌本朝二十四孝」「狂歌調子笛」等は早く嘉永六年に印刷せられたものである。ただそれが職業となったのである。しかしこの職業は幾何《いくばく》の利益をも齎《もたら》さなかった。
これに反して所謂《いわゆる》庵室は昔馴染の芸人等の遊所となった。俳優中では市川新車、同《おなじく》市蔵、同九蔵、板東|家橘《かきつ》等が常の客であった。新車は後の門之助、家橘は後の五代目菊五郎である。香以は今芸人等と対等の交際をする身の上になって、祝儀と云うものは出さぬが、これに饗《きょう》する酒飯の価は聊《いささか》の売文銭の能《よ》く償う所ではなかった。何時頃《いつごろ》からの事か知らぬが、香以の家の客には必ず膳《ぜん》が据えられ、菜《さい》は塩辛《しおから》など一二品に過ぎぬが、
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