《らち》して、声威を張り儀容を飾る具となすように、藤次郎は俳諧師、狂歌師、狂言作者、書家、彫工、画工と交って、その多数を待つことほとんど幇間と択《えら》ぶことが無かった。父竜池は毎《つね》に狂歌を弄《もてあそ》んだが、藤次郎はこれに反して主《おも》に俳諧に遊んだ。その友を集《つど》えた席は、長谷川町の梅の家、万町《よろずちょう》の柏木亭《かしわぎてい》等であった。
 藤次郎は子之助時代に鯉角《りかく》と号し、一に李蠖《りかく》とも署していたが、家を継いだ後、関|為山《いざん》から梅の本の称を受け、更に晋永機《しんえいき》に晋の字を貰い、自ら香以と号し、また好以、交以、孝以とも署した。たまたま狂歌を作るときは何廼屋《なにのや》と署した。
 劇場では香以は河原崎権十郎を贔屓にした。後の九代目団十郎である。香以は贔屓の連中を組織して、荒磯連《あらいそれん》と名《なづ》け、その掟文《おきてぶみ》と云うものを勝田諸持に書かせた。九代目の他日の成功は半香以の庇蔭《ひいん》に因《よ》ったのである。また八代目が自刃した後、権十郎の実父七代目団十郎の寿海老人が江戸に還っていたので、香以はこれをも贔屓にし
前へ 次へ
全55ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング