池は子之助を拉《らっ》して帰り、幸町《さいわいちょう》の持地面に置いてある差配人佐兵衛に預けた。そして勘当の手続をしようとした。しかし手代等の扱によって、子之助は山城河岸に帰り、父の監督を受けることとなった。
幸《さいわい》に竜池は偽善を以て子を篏制《かんせい》しようとはしなかった。自分の地味な遊には子之助を侍せしめて、これに教うるに酒色の筵《むしろ》にあっても品位を墜《おと》さぬ心掛を以てした。子之助の態度は此《ここ》に一変した。これが子之助の二十一歳になった時の事である。
竜池の贔屓にした七代目団十郎は、この年六月二十二日に江戸を追放せられ、竜池の親しい友為永春水はこの年七月十三日に牢死《ろうし》した。これも間接に山城河岸の父子をして忌諱《きき》を知らしむる媒《なかだち》となったであろう。
これから安政三年に至るまでの間には記すべき事が少い。姑《しばら》く二三の消息を注すれば、先ず天保十四年に河原崎座が、先に移った中村、市村両座と共に猿若町《さるわかちょう》に移って、勝諺蔵が立作者|柴晋助《しばしんすけ》となった。芝宇田川町にいたからである。河竹新七の名は暫《しば》らく立って
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