号を受けて、自ら寿阿弥と称し、次でこれを河竹其水《かわたけきすい》に譲って梅阿弥《ばいあみ》と称し、その後また方阿弥と改め、その他の阿弥号は取巻の人々に分贈した。是阿弥はその一つだそうである。
香以は明治三年九月十日に歿した。翌四年の一周忌を九月十日に親戚《しんせき》がした。後に取巻の人々は十月十日を期して、小倉是阿弥の家に集まって仏事を営み、それから駒込《こまごめ》願行寺《がんぎょうじ》の香以が墓に詣《もう》でた。この法要の場所は即《すなわ》ち崖の上の小家であったのである。
五
香以の子之助は少年の時|経《けい》を北静廬《きたせいろ》に学び、筆札を松本|董斎《とうさい》に学んだ。静廬は子之助が十四歳の時、既に七十に達して、竹川町西裏町に隠居していた。子之助は纔《わずか》に字を識るに及んで、主に老荘の道を問うたそうである。董斎は董其昌《とうきしょう》風の書を以って名を得た人で、本石町塩河岸に住んでいた。
子之助が生れてから人と成るまでの間には、年月を詳《つまびらか》にすべき事実が甚だ少い。文政六年には父竜池の師|秦《はた》星池が六十一歳で歿した。子之助が甫《はじ
前へ
次へ
全55ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング