れから七つ目の子《ね》を以て[#「以て」は底本では「似て」]名となしたのである。二代目津藤として出藍《しゅつらん》の誉《ほまれ》をいかがわしい境に馳せた香以散人はこの子之助である。

       三

 わたくしが香以の名を聞いたのは、彼《かの》人情本によって津藤の名を聞いたのと、余り遅速は無かったらしい。否《いな》あるいは同時であったかも知れない。その後にはこの名のわたくしの耳目に触れたことが幾度《いくたび》であったか知れぬが、わたくしは始終深く心に留めずに、忽《たちま》ち聞き忽ち忘れていた。そしてその間《あいだ》竜池香以の父子を混同していた。
 それからある時香以と云う名が、わたくしの記憶に常住することになった。それは今住んでいる団子坂の家に入った時からの事である。
 この家は香以に縁故のある家で、それを見出したのは当時存命していたわたくしの父である。父は千住で医業をしていたが、それを廃《や》めてわたくしと同居しようとおもった。そして日々家を捜して歩いた。その時この家は眺望の好《い》い家として父の目に止まった。
 団子坂上から南して根津権現の裏門に出る岨道《そばみち》に似た小径《こみち》がある。これを藪下《やぶした》の道と云う。そして所謂《いわゆる》藪下の人家は、当時根津の社《やしろ》に近く、この道の東側のみを占めていた。これに反して団子坂に近い処には、道の東側に人家が無く、道は崖《がけ》の上を横切っていた。この家の前身は小径を隔ててその崖に臨んだ板葺《いたぶき》の小家であった。
 崖の上は向岡《むこうがおか》から王子に連る丘陵である。そして崖の下の畠《はたけ》や水田を隔てて、上野の山と相対している。彼小家の前に立って望めば、右手に上野の山の端《はな》が見え、この端と向岡との間が豁然《かつぜん》として開けて、そこは遠く地平線に接する人家の海である。今のわたくしの家の楼上から、浜離宮の木立の上を走る品川沖の白帆の見えるのは、この方角である。
 父はこの小家に目を著けて、度々崖の上へ見に往った。小家には崖に面する窓があって、窓の裡《うち》にはいつも円頂の媼《おうな》がいた。「綺麗な比丘尼《びくに》」と父は云った。
 父は切絵図を調べて、綺麗な比丘尼の家が、本《もと》世尊院の境内であったことを知った。世尊院は今旧境内の過半を失って、西の隅に片寄っている。
 父はわた
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