八十二歳であった。寺は其角と同じく二本榎上行寺である。」文淵堂の言《こと》に従えば、わたくしの記事には誤がなかったらしい。猶《なお》考うべきである。
香以のその他の友に関して、近隣の梅本高節さんは語った。「香以の友阿心庵是仏が谷中三河屋の主人なることは伝に見えていた。是仏の俗称は斎藤権右衛門であった」と云うのである。わたくしはこれを聞いて始て是仏の狩谷矩之の生父なることを知った。斎藤権右衛門には三子があった。長を権之助という。是が四世清元延寿太夫である。諸書にこの人の俗称を源之助と書してあるが、あるいは後に改めたものか。仲は狩谷三平懐之(※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎望之の実子)の養子三右衛門矩之である。季が父の称を襲《つ》いで権右衛門と云い、質店の主人となったと云う。
梅本氏はまた香以の今一人の友小倉是阿弥の事を語った。「是阿弥は高木氏で、小倉はその屋号であった。その団子坂上の質商であったことは伝に云うが如くである。是阿弥の妻をぎんと云って、その子を佐平と云った。また佐平に息真太郎、女《むすめ》啓があった。然るに佐平もその子女も先ず死して、未亡人ぎんが残った。これが崖上《がけうえ》の家の女主人であった。」わたくしは此に由って、父が今の家を是阿弥の未亡人の手から買い取ったと云うことを知った。
香以の他の友人二人の事は文淵堂主人が語った。石橋真国と柴田是真との事である。「石橋真国は語学に関する著述未刊のもの数百巻を遺した。今松井簡治さんの蔵儲《ぞうちょ》に帰している。所謂《いわゆる》やわらかものには『隠里の記』というのがある。これは岡場所の沿革を考証したものである。真国は唐様《からよう》の手を見事に書いた。職業は奉行所の腰掛茶屋の主人であった。柴田是真は気※[#「(漑−さんずい)/木」、第3水準1−86−3]《きがい》のある人であった。香以とは極めて親しく、香以の摺物《すりもの》にはこの人の画のあるものが多い。是真の逸事にこう云う事がある。ある時是真は息と多勢の門人とを連れて吉原に往き、俄《にわか》を見せた。席上には酒肴《しゅこう》を取り寄せ、門人等に馳走した。然るに門人中坐容を崩すものがあったのを見て、大喝して叱した。遊所に足を容るることをば嫌わず、物に拘《こだわ》らぬ人で、その中に謹厳な処があった。」
[#地から1字上げ](大正六年九月―十月)
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