いた。
スタニスラウスは二三度肩を聳かして、そして心配らしい、物を聞き定めるやうな顔をした。
一同はイレエネ・ホルンの家の戸口に着いた。その時スタニスラウスは家族が皆見てゐる前で、さつきの肩の運動を繰り返してゐる。
イレエネがその様子を見て、じれつたさうに、「をぢさん、どうなすつたの」と云つた。
スタニスラウスは先づ心配げな顔に、堪忍《かんにん》の表情を蓄へられる丈蓄へて、矢張さつきの肩の運動を繰り返して、溜息を衝いて云つた。「なんだか体がぎごちなくなつたやうだ。礼拝堂で風を引いたのかしらん。」
イレエネは只頷いた。
イレエネの妹のフリイデリイケが、さも物をこらへてゐると云ふ口吻で囁いだ。「わたくしもそんな気がいたしますの。」
こんな事を言ひ合つて、門口を這入つて行く。その時フランス女の家庭教師がイレエネの息子の、七歳になつて、色の蒼いのを連れて、そこへ近寄つて来た。自分も色の蒼いフリイデリイケは、少年の額を撫で上げて遣りながら、腹の内で「この子がこんなに蒼い顔をしてゐるのは、きつと風を引いたのだらう」と思つた。
暗い梯子段を上がる時、フリイデリイケはイレエネに囁いだ。「あの、オスワルドは咳をしてゐますのね。」
家族一同が食卓に就いた時、人々はやう/\礼拝堂から持つて帰つた病気の事を忘れた。
スタニスラウスは妹の少佐夫人とフリイデリイケとの間に据わつてゐる。さつき体操をするやうに肩を動かした填合《うめあは》せと見えて、今は神の塑像のやうに凝坐《ぎようざ》してゐる。その向ひには老処女のアウグステが据わつてゐる。アウグステはこの家で何事にも手を出して働いて、倦むことを知らない、をばさんである。この人がどう云ふ親族的関係の人だかは、誰も知らない。
スタニスラウスの目は向ひのアウグステをばさんの頭の上を通り越して、食堂の一番暗い隅に注がれてゐる。そこには小さい卓が置いてあつて、その傍に、丈の高い腕附きの椅子に、金巾《かなきん》の覆ひを掛けたのが二つ、手持無沙汰な風をして据ゑられてゐる。
此一刹那には、スタニスラウスがひどく忙しさうな態度をしてゐる。丁度役所で新聞を読んでゐる所へ、誰かが這入つた時と同じ態度である。剛《こは》くなつた指がナイフを握つてゐるのが、役所でペン軸を持つてゐるのと同じやうに見える。今思つてゐる事が役所で取り扱つてゐる書類であつた
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