き取れなかつた。
 スタニスラウスは何事に依らず、早く片を付けたい性分だから、こんな形式的な事件が手間取るのを不愉快に思つて、もう声に優しみを加へることをも忘れて、荒々しく叫んだ。「おい。ヨハン。達者か。」
 一同耳を欹《そばだ》てた。フリイデリイケも、女教師も、アウグステをばさんも黙つた。小さいオスワルドは熱心に何事か聞かうと思つて、フオオクに突き刺した肉を口に入れるのを忘れてゐた。
 今度はヨハンにも聞き取れた。そこで尊敬を忘れずに心易立《こゝろやすだ》てをも敢てする老僕の態度で、スタニスラウスの白髪頭の上へ首を屈めて云つた。「難有うございます。ペエテル様。」老僕は先先代に対して、外の一族の人達と区別する為めに、こんな風に名を言つてゐたのである。一言一言念を入れて、思ひ出し思ひ出しして言ふやうであつた。それを聞いてゐたフリイデリイケは、久しく巻かなかつた時計が時を打つのを聞くやうに感じた。中にも「ペエテル」と云ふ前には老僕が大ぶ長い間を置いたので、この名をはつきり言つた時には、気を付けて聞いてゐた一同の耳に、それが異様に響いた。
 スタニスラウスはぎくりとした様子で、顔色が真つ蒼になつた。そして老僕をいたはる心持で微笑んでゐた微笑《ゑみ》が消えてしまつた。この刹那に、スタニスラウスは一同の目が自分の一身に集注してゐるのを感じて、それと同時に自分が奈何《いか》にも老衰して、たよりなくなつてゐるやうに思つた。それは人々の目が兼て自分のぼんやりと感じてゐた「恐怖」をはつきりと現してゐたからである。
 スタニスラウスは一座を見廻した。そして誰かの唇が「ペエテル」と囁いでゐはしないかと懸念した。併し誰一人唇を動かしてゐるものはなかつた。
 スタニスラウスはおそる/\振り返つて見て、精々気を弱らせぬやうにと自ら努力して、口の内で、「こいつ気が変になつてゐるな」と云つた。併し背後にはもう誰もゐなかつた。
 スタニスラウスは平手で二三度狭い額を撫でた。
「どうかなすつたの」と、隣の少佐夫人が云つた。夫人は一座の中で割合に慌てずにゐたのである。
「いや。なに。」スタニスラウスは微かな声で答へた。それから強ひて決心したらしく、膝の上のセルヰエツトを掴んで、皿の側に置いて、両手で卓の縁を押へて身を起した。それから怪しげな足取をして、暗い隅の方へ歩いて行つて、例の小さい卓の側に、腕附き
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