タニスラウス様だと極めた。そして色の青いオスワルドの、尖つた肘に障《さは》らないやうに皿を持つて行く時、さも小さいスタニスラウス様をいたはると云ふ態度をしてゐた。一同の目は心配げに老人の挙動を見てゐる。これがヰツク家代々の遺物たる、珍らしい人物だからである。
ヨハン爺いさんはとうとう総ての亡者に給仕をしてしまつて、フランス女の前に来た。ところがこの茶色の目をした女は誰だらうといふ心当りが、どうしても附かなかつた。併し自分の記憶が折々怪しくなる事は認めてゐるので、この女の事位思ひ出されなくても差支ないと思つて、ちよいと出した皿を、まだ女の十分取らないうちに引つ込めた。女教師はびつくりして振り向いたが、その驚きを人に気取《けど》られないやうにと思つて、子供に物を言つた。「Bubi, tu as trop.」かう云ひながら、子供の皿の上の一切れの肉をこつそり自分の皿の上に運んだ。
オスワルドはこはごは惜しげにその肉を見送つた。この間アウグステをばさんは色々な、下らない世間話をしてゐる。併し誰も真面目に相手にならずに、稀に好い加減の相槌を打つてゐる。
女主人は、アウグステをばさんがこんな日に世間話をするのを、不都合だと思つて、少佐夫人にそつとその心持を話した。少佐夫人は只頷いて、熱心に鹿の肉を退治てゐる。
フリイデリイケはアウグステをばさんが何を言はうと構はないで、女教師と話をしてゐる。女教師は、自分が尼寺に這入らうと思つた事があると云ふ話を、もう十一度繰り返してゐる。フリイデリイケは何遍でも面白さうに耳を傾けてゐて、この次の十二度目には、この色の蒼いパリイの女が、どうしてそんな決心をしたかと云ふ、その小説の片端をなりとも聞き出したいと思ふのである。そのうちスタニスラウスをぢさんの声を張り上げて何か言ふのが聞えたので、この対話は中止せられた。
スタニスラウスはヨハン爺いさんに好意を表せなくてはならないやうに思つて、そのリフレエ服の裾を引き留めて囁いだのである。「おい。いつまで立つてもお前と己とは年が寄らないなあ。」
爺いさんは返事をすることが出来なかつた。一つにはペエテル様のお詞が掛かつた難有さに感動して、物が言はれない。又一つには耳がひどく遠いので、何を言はれたか少しも分からないのである。
スタニスラウスは少しせき込んで同じ事を繰り返したが、今度も老僕には聞
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