ているだろうと思うのです。(勝ち誇りたる気色《けしき》にて女を見る。)
女。(小声にて。)そんならあなたはわたくしのような性《たち》の女が手紙を落すつもりでなくて落すものだとお思いなさるの。
男。なんですと。
女。夫を持っていて色をしようと云う女に、手紙の始末ぐらいが出来ないものでございましょうか。あなたのお考えなさるように、わたくしがやたらむしょうに手紙を落しなんかしようものなら、わたくしもう疾《と》っくに頸の骨を折ってしまうはずではございますまいか。
男。なんですと。そんならあなたはわざとあの手紙を落したとおっしゃるのですか。
女。それは知れた事じゃございませんか。
男。(呆れて。)そんならなんのためにお落しなすったのです。
女。それもあなたには知れているはずじゃございませんか。あなたに宅の主人をお目に掛けて、あなたの恋をさましてお上げ申したのですわ。
男。それがなんになるのですか。
女。それはわたくし悲劇が嫌だからでございますの。ちょうどいい時節が来たので、手紙を落します。するとあなたが段々わたくしに構わないようにおなりなさる。そこで平和の中《うち》にお別れが出来ると云うものじゃございませんか。
男。しかしなぜわたくしの恋をさまさなくてはならないのですか。
女。それでございますか。それはわたくしがもうあの写真を外の人に見せたからでございますの。ね、お分かりになりましたでしょう。男の方と云うものは、写真一枚と手紙一本とで勝手に扱うことが出来ますの。男心と云うものはそうしたものでございますからね。Maupassant が 〔notre coe&ur〕 と申した、その男心でございますね。(男の呆れて立ち竦《すく》みいるをあとに残し置き、女は平気にて歩み去る。)
底本:「諸国物語(上)」ちくま文庫、筑摩書房
1991(平成3)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鴎外全集」岩波書店
1971(昭和46)年11月〜1975(昭和50)年6月
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2007年12月27日作成
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