こしら》えさせる。髪をちぢらせる。どうにかして美しくなろうと意気込んで、それと同時にあなたに対しては気違染みた嫉妬をしていたのです。まだ覚えておいでなさるか知りませんが、いつでしたかあなたが御亭主と一しょに舞踏会に往くとおっしゃった時、わたくしは夢中になっておこったことがありますね。わたくしはあの写真の男に燕尾服がどんなに似合うだろうと想像すると、居ても立っても居られなかったのです。
 女。ええ。まだ覚えていますの。
 男。それからわたくしはあなたをちょっとの間も手離すまいとしたのですね。あなたが誰と知合になられたとか、誰と芝居へおいでになったとか云うことを、わたくしは一しょう懸命になって探索したのです。あのころ御亭主は用事があってロンドンへ往っておいでになると云うことでしたから。
 女。ええ。あの時のあなたの御様子は、まあ、そんな風でございましたのね。
 男。それからどうなったかお考えなすって御覧なさい。ある日あなたがおいでになって、御亭主が帰られたとおっしゃったでしょう。そこでどうにかして一度御亭主に逢わせて下さいと云って、わたくしは歎願しましたね。しかしどうしてもあなたは聴きませんでしたね。するとある日の事、たしか午後にわたくしの所にいらっしゃった時でした。あなたは手紙をお落しなすったのです。わたくしはお帰りになったあとで気が附きました。その手紙に書いてあった文句はこうでした。「明日のオペラ座の切符手に入り候に付、主人同道お誘いに参り可申《もうすべく》候、何卒《なにとぞ》御待受|被下度《くだされたく》候。母上様」と云うのでした。お母あ様の所へ出す手紙を、あなたはわたくしの部屋に落してお置きになったですねえ。
 女。おや。そうでしたか。あの手紙はあなたの所で落しましたのですかねえ。
 男。ええ。そうでした。ところでわたくしのためにはそれが好都合だったのです。翌日わたくしが急いでオペラ座へ往って見ますと、お母あ様と御夫婦とでちゃんと桟敷にいらっしゃったのですね。
 女。そこで。
 男。それをあなた平気でわたくしにお聞きになるのですか。
 女。ではどんなにして伺えばよろしいのでしょう。
 男。だって驚くじゃありませんか。あの時わたくしには始めて分かったのです。まあ、あなたが※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]衝《うそつき》だとは申しますまい。体好く申せばわたくしをお担ぎなすったのですね。あなたの御亭主と云うのは年が五十、そうですね、五十五六くらいで、頭がすっかり禿げていて、失礼ですが、無類の不男だったろうじゃありませんか。おまけに背中は曲がって、毛だらけで、目も鼻もあるかないか分からないようで、歯が脱けていて。
 女。おやおや。
 男。あなただってあれが御亭主でないとはおっしゃられないでしょう。
 女。ええ。宅の主人ですとも。
 男。わたくしはあなたの御亭主を知っていた友達に聞いてみて、確めたのです。
 女。ええええ。宅の主人に相違ございません。
 男。まあ、それはそれでよろしゅうございます。そこでなんだってあんな狂言をなすったのです。あのお見せになった写真の好男子は誰ですか。
 女。あの写真はロンドンで二シルリングかそこらで買ったのでございます。わたくしも誰の写真だか存じません。いずれイギリスのなんとか申す貴族だろうと存じますの。
 男。そこでなぜそれを。
 女。それはあなたお分かりになっていらっしゃるじゃございませんか。あれを御覧にいれた方がわたくしには都合がよろしかったのですもの。御承知の通り、わたくしの狂言はすっかり当りましたでしょう。あなたあの写真と競争をお始めなすってから、男前が五割方上がりましたよ。あの写真があなたをせびるようにして、あなたから出来るだけの美しさや、御様子のよさや、才智を絞り出してくれたのでございますね。あの頃わたくし全くあなたに惚れていましたの。ですからあなたの長所が平生の倍以上になったのがどんなにか嬉しゅうございましたでしょう。
 男。なるほど。旨くたくらんだものですね。しかしやっぱり女の智慧です。
 女。なぜでございますの。
 男。でも手紙を一本落しなすったばかりで、せっかくの趣向がこわれてしまったじゃありませんか。手紙を拾った翌日あなたの御亭主の正体が分かる。あなたの※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》が分かる。そこでわたくしは無駄骨を折らなくてもいい事になる。あんな御亭主に比べて見れば、わたくしは鬚ぐらい剃らずにいたって、十割も男が好いわけですからね。そこでわたくしは段々身だしなみをしなくなる。焼餅も焼かなくなる。恋が褪め掛かる。とうとう恋も何も無くなったと云うわけですね。あの時手紙なんぞをお落しなさらなかったら、わたくしはきょうだってまだあなたに惚れ
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング