郎兵衞が沖船頭の新七を使つてゐるのである。
 元文元年の秋、新七の船は、出羽國秋田から米を積んで出帆した。其船が不幸にも航海中に風波の難に逢つて、半難船の姿になつて、積荷の半分以上を流出した。新七は殘つた米を賣つて金にして、大阪へ持つて歸つた。
 さて新七が太郎兵衞に言ふには、難船をしたことは港々で知つてゐる。殘つた積荷を賣つた此金は、もう米主に返すには及ぶまい。これは跡の船をしたてる費用に當てようぢやないかと云つた。
 太郎兵衞はそれまで正直に營業してゐたのだが、營業上に大きい損失を見た直後に、現金を目の前に並べられたので、ふと良心の鏡が曇つて、其金を受け取つてしまつた。
 すると、秋田の米主の方では、難船の知らせを得た後に、殘り荷のあつたことやら、それを買つた人のあつたことやらを、人傳《ひとづて》に聞いて、わざ/\人を調べに出した。そして新七の手から太郎兵衞に渡つた金高までを探り出してしまつた。
 米主は大阪へ出て訴へた。新七は逃走した。そこで太郎兵衞が入牢してとう/\死罪に行はれることになつたのである。

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 平野町のおばあ樣が來て、恐ろしい話をするのを※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、252−下−27]娘のいちが立聞をした晩の事である。桂屋の女房はいつも繰言を言つて泣いた跡で出る疲が出て、ぐつすり寐入つた。女房の兩脇には、初五郎と、とくとが寢てゐる。初五郎の隣には長太郎が寢てゐる。とくの隣にまつ、それに並んでいちが寢てゐる。
 暫く立つて、いちが何やら布團の中で獨言を言つた。「ああ、さうしよう。きつと出來るわ」と、云つたやうである。
 まつがそれを聞き附けた。そして「※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、253−上−7]《ね》えさん、まだ寐ないの」と云つた。
「大きい聲をおしでない。わたし好い事を考へたから。」いちは先づかう云つて妹を制して置いて、それから小聲でかう云ふ事をささやいた。お父つさんはあさつて殺されるのである。自分はそれを殺させぬやうにすることが出來ると思ふ。どうするかと云ふと、願書《ねがひしよ》と云ふものを書いてお奉行樣に出すのである。しかし只殺さないで置いて下さいと云つたつて、それでは聽かれない。お父つさんを助けて、其代りにわたくし共子供を殺して下さいと云つて頼むのである。それをお奉行樣が聽いて下すつて、お父つさんが助かれば、それで好い。子供は本當に皆殺されるやら、わたしが殺されて、小さいものは助かるやら、それはわからない。只お願をする時、長太郎だけは一しよに殺して下さらないやうに書いて置く。あれはお父つさんの本當の子でないから、死ななくても好い。それにお父つさんが此家の跡を取らせようと云つて入らつしやつたのだから、殺されない方が好いのである。いちは妹にそれだけの事を話した。
「でもこはいわねえ」と、まつが云つた。
「そんなら、お父つさんが助けてもらひたくないの。」
「それは助けてもらひたいわ。」
「それ御覽。まつさんは只わたしに附いて來て同じやうにさへしてゐれば好いのだよ。わたしが今夜願書を書いて置いて、あしたの朝早く持つて行きませうね。」
 いちは起きて、手習の清書をする半紙に、平假名で願書を書いた。父の命を助けて、其代りに自分と妹のまつ、とく、弟の初五郎をおしおきにして戴きたい、實子でない長太郎だけはお許下さるやうにと云ふだけの事ではあるが、どう書き綴つて好いかわからぬので、幾度も書き損つて、清書のためにもらつてあつた白紙が殘少になつた。しかしとう/\一番鷄の啼く頃に願書が出來た。
 願書を書いてゐるうちに、まつが寐入つたので、いちは小聲で呼び起して、床の傍に疊んであつた不斷着に著更へさせた。そして自分も支度をした。
 女房と初五郎とは知らずに寐てゐたが、長太郎が目を醒まして、「ねえさん、もう夜が明けたの」と云つた。
 いちは長太郎の床の傍へ往つてささやいた。「まだ早いから、お前は寐ておいで。ねえさん達は、お父つさんの大事な御用で、そつと往つて來る所があるのだからね。」
「そんならおいらも往く」と云つて、長太郎はむつくり起き上がつた。
 いちは云つた。「ぢやあ、お起《おき》、著物を著せて上げよう。長さんは小さくても男だから、一しよに往つてくれれば、其方が好いのよ」と云つた。
 女房は夢のやうにあたりの騷がしいのを聞いて、少し不安になつて寢がへりをしたが、目は醒めなかつた。
 三人の子供がそつと家を拔け出したのは、二番鷄の啼く頃であつた。戸の外は霜の曉であつた。提灯を持つて、拍子木を敲《たゝ》いて來る夜廻の爺いさんに、お奉行樣の所へはどう往つたら往かれようと、いちがたづねた。爺いさんは親切な、
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