娘だ」と感じて、その感じには物でも憑《つ》いているのではないかという迷信さえ加わったので、孝女に対する同情は薄かったが、当時の行政司法の、元始的な機関が自然に活動して、いちの願意は期せずして貫徹した。桂屋太郎兵衛の刑の執行は、「江戸へ伺中《うかがいちゅう》日延《ひのべ》」ということになった。これは取り調べのあった翌日、十一月二十五日に町年寄《まちどしより》に達せられた。次いで元文四年三月二日に、「京都において大嘗会《だいじょうえ》御執行相成り候《そろ》てより日限《にちげん》も相立たざる儀につき、太郎兵衛事、死罪御赦免仰せいだされ、大阪北、南組、天満《てんま》の三|口御構《くちおかまい》の上追放」ということになった。桂屋の家族は、再び西奉行所に呼び出されて、父に別れを告げることができた。大嘗会というのは、貞享《じょうきょう》四年に東山天皇《ひがしやまてんのう》の盛儀があってから、桂屋太郎兵衛の事を書いた高札《こうさつ》の立った元文三年十一月二十三日の直前、同じ月の十九日に五十一年目に、桜町天皇《さくらまちてんのう》が挙行したもうまで、中絶していたのである。
底本:「山椒大夫・高瀬舟」岩波文庫
1938(昭和13)年7月1日第1刷発行
1967(昭和42)年6月16日第34刷改版発行
1998(平成10)年4月6日第77刷発行
初出:「中央公論 第30年第11号」
1915(大正4)年10月1日
入力:kompass
校正:土屋隆
2006年3月21日作成
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