帰った。家康は約束《やくそく》どおり甚五郎を召《め》し出したが、目見えの時一言も甘利の事を言わなんだ。蜂谷の一族は甚五郎の帰参を快くは思わぬが、大殿《おおとの》の思召《おぼしめ》しをかれこれ言うことはできなかった。
甘利は死んでも小山の城はまだ落ちずにいた。そのうち世間には種々の事があった。先に武田信玄《たけだしんげん》が死んでから七年目に、上杉謙信《うえすぎけんしん》が死んだ。三十六|歳《さい》で右近衛権少将《うこんえごんしょうしょう》にせられた家康の一門はますます栄えて、嫡子《ちゃくし》二郎三郎信康が二十一歳になり、二男|於義丸《おぎまる》(秀康《ひでやす》)が五歳になった時、世にいう築山殿《つきやまどの》事件が起こって、信康はむざんにも信長の嫌疑《けんぎ》のために生害《しょうがい》した。後に将軍職を承《う》け継いだ三男|長丸《おさまる》(秀忠《ひでただ》)はちょうどこの年に生まれ、四男|福松丸《ふくまつまる》(忠吉《ただよし》)はその翌年に生まれた。それから中一年置いて、家康が多年目の上の瘤《こぶ》のように思った小山の城が落ちたが、それはもう勝頼の滅《ほろ》びる悲壮劇《ひそうげ
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