高瀬舟縁起
森鴎外

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)高瀬川《たかせがわ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)京都|町奉行《まちぶぎょう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「舟+共」、第4水準2−85−70]
−−

 京都の高瀬川《たかせがわ》は、五条から南は天正十五年に、二条から五条までは慶長十七年に、角倉了以《すみのくらりょうい》が掘ったものだそうである。そこを通う舟は曳舟《ひきふね》である。元来たかせは舟の名で、その舟の通う川を高瀬川と言うのだから、同名の川は諸国にある。しかし舟は曳舟には限らぬので、『和名鈔《わみょうしょう》』には釈名《しゃくめい》の「艇小而深者曰※[#「舟+共」、第4水準2−85−70]《ていしょうにしてふかきものをきょうという》」とある※[#「舟+共」、第4水準2−85−70]《きょう》の字をたかせに当ててある。竹柏園文庫《ちくはくえんぶんこ》の『和漢船用集』を借覧するに、「おもて高く、とも、よこともにて、低く平らなるものなり」と言ってある。そして図には※[#「竹かんむり/高」、第3水準1−89−70]《さお》で行《や》る舟がかいてある。
 徳川時代には京都の罪人が遠島を言い渡されると、高瀬舟で大阪へ回されたそうである。それを護送してゆく京都|町奉行付《まちぶぎょうづき》の同心《どうしん》が悲しい話ばかり聞かせられる。あるときこの舟に載せられた兄弟殺しの科《とが》を犯した男が、少しも悲しがっていなかった。その子細を尋ねると、これまで食《しょく》を得《う》ることに困っていたのに、遠島を言い渡された時、銅銭二百|文《もん》をもらったが、銭《ぜに》を使わずに持っているのは始めだと答えた。また人殺しの科はどうして犯したかと問えば、兄弟は西陣に雇われて、空引《そらび》きということをしていたが、給料が少なくて暮らしが立ちかねた、そのうち同胞が自殺をはかったが、死に切れなかった、そこで同胞が所詮《しょせん》助からぬから殺してくれと頼むので殺してやったと言った。
 この話は『翁草《おきなぐさ》』に出ている。池辺義象《いけべよしかた》さんの校訂した活字本で一ペエジ余に書いてある。私はこれを読んで
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング