左衞門が舟に兩夫人を移した。其時保科氏の侍女の一人で菊と云ふのが、邸を拔けて跡を慕つて來たので、それをも載せた。此舟は友信が保護の下に、首尾よく四日目に中津川へ著いた。重昌は水路を和泉國境《いづみのくにざかひ》へ出て、そこから更に乘船し、利安は陸路を播磨の室《むろ》まで行つて、そこから乘船して中津川へ歸つた。中津川からは、隠居孝高入道如水が、大阪の模樣を察して、兩夫人を迎へるために母里與三兵衞に舟を廻させたが、間に合はなかつた。大阪|天滿《てんま》の邸には四宮市兵衞が殘つて、豐臣方の奉行等に對して命懸《いのちがけ》の分疏《いひわけ》をした。此後加藤|主計頭《かぞへのかみ》清正の夫人を、梶原助兵衞が連れて、同じく大阪を拔け出し、これも中津川へ著いて、妻の兄梶原八郎太夫の家に泊まつたので、如水は加藤夫人に衣類を贈り、保科氏に附いて歸つた侍女菊を熊本まで附けて遣つた。
 翌慶長五年關ヶ原の功に依つて筑前國を貰つた長政は、年の暮に始て粕屋郡《かすやごほり》名島の城に入つた。六年には一旦《いつたん》京都へ上つて歸つた如水と相談して、長政が當時|那珂《なか》郡警固村の内になつてゐた福崎に城を築いた
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