忠之は諫書を讀んで怒つた。十太夫に對する妬《ねたみ》だと感じ、又穴搜しだと感じたのである。文章に經史が引いてあるので、利章が書いたと云ふことはすぐにわかつて、怒は利章一人の上に被《かぶ》さつた。忠之は利章を呼んで叱《しか》りたかつたが、利章は默つて叱られてをる男でないので、けぶたい思をして、面倒な話を聞くよりは、打ち棄てて置かうと思ひ返した。
利章等は固《もと》より、道柏、卜庵の二人も、忠之がなんとか沙汰《さた》をするだらうと思つて待つてゐたが、一向そんな摸樣がない。政事の機關は舊に依つて動いてゐる。十太夫は舊に依つて小賢《こざかし》げに立ち振舞つてゐる。前日と變つた事は、只忠之が利章に逢ふ度に顏を背《そむ》けるだけである。諫書にはこれだけの效果しかなかつた。
忠之が強情に此冷遇を持續すれば、利章も亦強情に隱忍してこれに報いた。そのうち寛永四年に亡くなつた孝高夫人櫛橋氏の喪も濟んだ。
翌五年に忠之は、參府の度毎《たびごと》に大阪と領國との間を航行するためだと云つて、寶玉丸と云ふ大船を造らせた。又十太夫の組下に附けると云つて、江戸へ屆けずに足輕三百人を募つた。諫書に擧げてあつた驕奢《けうしや》が、衣食調度の範圍内に止まらないで、大船の造營となり、夫卒の増員となつたのである。利章は最早坐視するに忍びないので、一成や内藏允に留められたにも拘《かゝは》らず、病氣を申し立てゝ家老の職を辭した。忠之は即座にこれを許した。利章は默つて城下の邸を引き拂つて、左右良《まてら》の別邸に引き籠つた。
忠之はうるさい物を除いた積でゐると、六年早々將軍家から土井|大炊頭利勝《おほひのかみとしかつ》を以て勸告があつた。黒田家の家來栗山父子は若年の主君を輔導すべきであるのに、齡《よはい》八十に垂《なんなん》とする備後は兎も角も、大膳が引き籠り居るは不都合である。出勤させるやうに取り計はれたが宜《よろ》しからうと云ふのである。忠之は據《よんどころ》なく利章に出勤を命じた。
利章は久し振に出勤したが、忠之は相變らず面を背けてゐる。辭職する前の状態と少しも異なる所がない。將軍家のお聲懸りの利章を、忠之はどうすることも出來ぬが、豫《かね》て懷《いだ》いてゐた惡感情は消えぬのみか、却《かへ》つて募るばかりである。
雙方のために不快な、緊張した間柄が持續せられてゐるうちに、寛永八年八月十四日に、利章の父卜庵が左右良の別邸で眠るやうに亡くなつた。享年八十一歳である。其頃十太夫はとう/\家老の列に加へられて、九千石を貰つた。實收三萬石の采地《さいち》である。利章は勿論《もちろん》、一成も内藏允も井上内記も、十太夫がいかに御用に立つとは云へ、節目のないものを家老にせられるのは好くあるまいと云つたが、忠之は聽かなかつた。
暫くして忠之は、家老の家には什寶《じふはう》がなくてはならぬと云つて、家康が關が原の役に父長政に與へた具足を十太夫に遺《おく》つた。利章はこれを聞いて、自分で、倉八の邸へ出向いて、其具足を取り上げたが、これだけの事をするのに、忠之には一言もことわらなかつたのである。忠之は怒つたが、これも利章にはなんにも云はずにしまつた。
彼此《かれこれ》するうちに寛永九年になつて、前將軍秀忠が亡くなり、忠之は江戸で葬儀に列して領國へ歸つた。利章が出勤するとか、せぬとか云ふ爭がかうじて、忠之が自分で利章の邸へ出向かうとしたのは此時の事である。原來利章も我慢強いが、忠之も我慢強い。其忠之が此時に限つて、分別のなくなる程|苛立《いらだ》つたには別に原因がある。秀忠の亡くなつたのは正月二十四日で、二十六日の夜増上寺への野邊送《のべおくり》があり、二月二十二日に勅使が立ち二十六日に遺物分《かたみわけ》があり、三月十一日に忠之は暇《いとま》を賜はつて江戸を立つた。忠之が領國に著いた四月は、隣國肥後に大事件の起つた月である。
四月十日に江戸永田町の室賀源七郎正俊が邸へ匿名《とくめい》の書を持つて來たものがある。肥後國熊本の城主加藤肥後守忠廣逆心云々の文面である。正俊の舅《しうと》井上新左衞門は土井利勝に懇意にしてゐるので、それを利勝に告げた。利勝は正俊に命じて匿名の書を持つて來た男を搜索させた。十四日に麹町土橋で其男を捕へて見ると、忠廣の嫡子豐後守光正が家來前田五郎八と云ふものであつた。將軍家光は日光へ參詣して、下野國《しもつけのくに》宇都宮に泊つてゐるので、利勝は正俊を宇都宮へ遣つて訴へさせた。そこで稻葉丹後守正勝が熊本へ上使に立つて、忠廣は江戸へ召し寄せられることになつた。正勝は熊本へ行くのに、筑前國|遠賀《をんが》郡|山鹿《やまが》を過ぎるので、丁度下國したばかりの忠之は、福岡から迎接の使者を出した。正使は十太夫で、副使は黒田市兵衞である。十太夫の同勢は新規の
前へ
次へ
全11ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング