告げる事、以上五箇條である。今異數の拔擢《ばつてき》を蒙《かうむ》つてゐる十太夫は、心底の知れぬものなので、若し右の第二に當るものではなからうかと、三人は朝夕目を附けてゐた。
 併し十太夫の勤振《つとめぶり》にはこれと云ふ廉立《かどだ》つた瑕瑾《かきん》が無い。只《たゞ》利章等が最初に心附いたのは、これまで自分等の手を經て行はれた事が、段々自分等の知らぬ内に極まるやうになると云ふだけである。そう云ふ風に忠之と下役のものとが、直に取り計らふ件々は、最初どうでも好いやうな、瑣細《ささい》な事ばかりであつたが、それがいつの間にか稍《やゝ》大きい事に及んで來た。利章等が跡からそれを役々のものに問ふと、別に仔細はない、只心附かなかつたと云ふ。かう云ふ問答が度重なる。利章等は始終事件の跡を追つて行くやうな傾になつた。
 利章等は安からぬ事に思つた。そこで折々忠之に事務の手續が違つたのを訴へると、忠之も別に仔細はない、只心附かなかつたと云ふ。下《しも》に向いて糺《たゞ》しても、上《かみ》に向いて訴へても、何の效果も見えなかつた。
 利章等はいつか、どうにかして此惡弊を改めたいと思った。此惡弊が暫時《ざんじ》も君側を離れぬ新參十太夫の勤振と連係してゐることは、言ふまでもなかった。併し獨り十太夫に廉立った瑕瑾がないばかりでなく、政事向にも廉立った過失がない。利章等は只|殆《ほとん》ど本能的に形勢の變じて行くのを感ずるだけである。
 利章等は眼を鋭くして見た。そして次第にその變じて行く形勢を見分けることが出來た。
 先づ認められるのは政事向一般に弛《ゆる》みが出た事である。忠之の表へ出座する時刻が遲れ勝になり、奥へ引籠む時刻が早目になった。随《したがつ》て役人等も遲く出て早く引くやうになつた。忠之は參府の間も此習慣の儘《まゝ》に振舞って、登城に遲れ、又早目に退出するのである。領國から江戸への使者、豐後にをる徳川家の目附への使者なども、前々よりは日取りが繰り下げられるやうになつた。
 次に認められるのは、兎角物事が輕々しく成り立って慌《あわ》ただしく改められる事である。最甚《もつともはなはだ》しい一例は、江戸への使者を、初に森正左衞門に命じ、次いで月瀬|右馬允《うめのじよう》に改め、又元の森に改め、終《つひ》に坪田正右衞門に改めたのである。人を任用する上にも、きのふまで目を懸けて使はれたものが、俄《にはか》に勘氣を蒙《かうむ》ることがある。
 次に遊戯又はそれに近い事が、眞面目《まじめ》な事のゆるかせにせられる中で、活氣を帶びて行はれ、それに關係した嚴重な、微細な掟《おきて》が立てられるのが認められる。申樂《さるがく》の者が度々急使を以て召され、又|放鷹《はうよう》の場では旅人までが往來を禁ぜられる類《たぐひ》である。忠之が江戸からの歸に兵庫の宿で、世上の聞えをも憚らずに、傀儡女《くぐつめ》を呼んだこともある。
 次に驕奢《けうしや》の跡が認められる。調度や衣服が次第に立派になつて、日々の饌《ぜん》も獻立がむづかしくなつた。
 次に葬祭弔問のやうな禮がなほざりになるのが認められる。寛永三年九月十五日に大御臺所《おほみだいどころ》と稱さられてゐた前將軍秀忠の母、織田氏達子の亡くなつた時、忠之は精進をせぬみか、放鷹に出た。家康の命日、孝高の命日にも精進をせず、江戸から歸つても、孝高、長政の靈屋《たまや》に詣《まう》でぬやうになつた。
 差當りこれ位の事が目に留まつてゐるが、どれも重大と云ふ事ではない。尤《もつと》も此形勢で押して行くうちに、物に觸れて重大な事が生ずるやも知れない。何か機會を得たら、しつかり主君に言ふ事にしようと、利章等三人は思つてゐた。
 そのうち罪なくして罰せられたものが一人と、罪あつて免《ゆる》されたものが一人と、引き續いて出來て、どちらも十太夫に連係した事件であつた。一つは博多《はかた》の町人が浮世又兵衞の屏風《びやうぶ》を持つてゐるのを、十太夫が所望してもくれぬので、家來を遣つて強奪させ、それを取り戻さうとする町人を入牢させたのである。今一つは志摩郡の百姓に盗をして召し取られたものがあつて、それが十太夫の妾《せう》の兄と知れて放されたのである。
 利章はとう/\決心して、一成、内藏允に相談し、自ら筆をとつて諫書《かんしよ》を作つた。部類を分けて、經史を引いて論じたのが、通計二十五箇條になつた。決心の近因になつた不正裁判は、賞罰明ならずと云ふ部類に入れて、十太夫を弾劾《だんがい》することに重きを置かず、專ら忠之の反省を求めることにした。さて淨書して之房の道柏、利安の卜庵に被見《ひけん》を請うたのが、寛永三年十一月十二日である。道柏、卜庵はすぐに奥書をして、小林|内匠《たくみ》、衣笠《きぬがさ》卜齋、岡善左衛門の三人に披露を頼んだ。
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