、監物、十太夫に面會し、正虎が「此度は右衞門佐殿|公事《くじ》御勝利になられて、祝著に存ずる、去りながら萬一右衞門佐殿配所へ遣《つかは》される事になつたのであつたら、面々《めん/\》はなんとなされたのであつたか、しかと承つて置きたい」と云つた。道柏が暫く思案して進み出た。「若しさやうに御極《おきめ》なされたら、家老一同|遁世《とんせい》仕つたでござりませう」と云つた。正虎が「一同それに相違はないか」と云つた。一成等は「相違ございませぬ」と云つた。正虎は「實に殊勝な心得と存ずる、黒田家には好い家老を持つてをられる」と云つて座を立つた。これは福岡で籠城《らうじやう》の用意をしたのが物議の種にならぬやうに、家老等の言質を取つたのである。
 又二三日立つてから、安藤家へ十太夫が呼ばれた。直次は正虎を立ち會はせて、十太夫に剃髮《ていはつ》して高野山に登ることを勸めた。十太夫は恐れ入つて領承した。
 五月八日に忠之は家光に謁見した。それで徳川家と黒田家との交際は元に復した。忠之は五年の後、寛永十五年の島原役に功を樹《た》て、中二年置いて十八年に長崎番を命ぜられた。此時から從來平戸に來たオランダ舟が長崎に來ることになつたのである。
 是より先、寛永十四年に島原の亂が起つた時、十太夫は高野山を拔け出て耶蘇《やそ》教徒の群に加つたが、原城の落ちた時亂軍の中で討たれた。

     ――――――――――――

 利章が陸奧國巖手《むつのくにいはて》郡盛岡の城下に遷つたのは、寛永十一年三月の末であつた。南部家では廣小路に立派な邸を設けてこれを迎へた。
 二年前の六月十四日は利章がため恐るべき日であつた。利章は福岡の邸から女房と二男吉次とを主家へ人質に出し、竹中采女正に宛てた訴状を二通書いて、一通は物馴れたものに持たせて、間道を日田へ遣り、今一通はわざと人に怪まれるやうな風體の百姓に持たせて、市中でそれを巡檢の役人に捕へさせた。利章は此最後の手段を取る前に、手分をして城下の邸をも左右良《まてら》の別邸をも取り片附け、大切な品はそれ/″\處分した。中には徳川家康が長政に與へた、慶長五年九月十九日附の書附がある。「今天下平均|之《の》儀、誠《まことに》御忠節|故《ゆゑ》と存候云云《ぞんじそろうんぬん》、御子孫永く疎略之儀|有之間敷候《これあるまじくそろ》[#「|有之間敷候《これあるまじくそろ》
前へ 次へ
全21ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング