、喜多村太郎兵衞、長瀬新次郎、櫛橋七之丞、西北の船手には松本吉右衞門、松本主殿、松本善兵衞、松本治右衞門、吉田孫右衞門、城内には衣斐伊豫、花房治右衞門、竹森新右衞門、其外隱居、二男、三男等がゐる。大略かう云ふ手筈《てはず》である。
 江戸では十一月十七日に、忠之が老中に呼ばれて西の丸へ出た。家來の任用、肥後表へ差し向けた使者の件等は、公儀に於いて越度《をちど》と認める、追つて詮議《せんぎ》を遂げるであらうと云ふ申渡《まうしわたし》である。暮方に成瀬は病氣だと云つて、安藤が來て慰問した。夜|戌刻《いぬのこく》に忠之は成瀬を見舞ひに往《い》つた。十九日に忠之は歸邸を許されたが、上邸は憚があると云ふので、弟隆政のゐた麻布の下邸に遷つて、隆政は長屋へ入り替つた。
 寛永十年二月上旬になつて、中二三日を隔てゝ、忠之は前後三度西の丸へ呼ばれて老中の取調を受けた。利章の訴へた叛逆の企の事も尋ねられたが、忠之の辯解は理義明白であつた。取調を受ける事になつてから、忠之はわざと遠慮して、又長谷寺に籠つてゐた。
 そのうち九州から竹中采女正が利章を連れて江戸に著した。そこで二月二十四日に、土井利勝の邸で利章と十太夫等との對決があることになつた。立會として井伊|掃部頭《かもんのかみ》直孝、酒井|雅樂頭《うたのかみ》忠世、酒井|讚岐守《さぬきのかみ》忠勝、松平|下總守《しもふさのかみ》忠弘、永井信濃守尚政、青山|大膳亮《だいぜんのすけ》幸利、板倉|周防守《すはうのかみ》重宗、稻葉丹後守正勝、尾張家附成瀬隼人正、紀伊家附安藤帶刀、大目附柳生但馬守|宗矩《むねのり》、秋山修理亮、水野河内守、加々爪《かゞづめ》民部の人々が利勝の左右に著座する。大目附席から一間隔てゝ、一方には竹中采女正に引き添つて利章がすわる。其向側には一成、其次に十太夫がすわる。
 其時一應の調があつた。利章は只|此度《このたび》の事は聊《いさゝか》存ずる旨《むね》があつて申し上げた、先年自分が諫書に認《したゝ》めて出した件々、又其後に生じた似寄の件々を、しかと調べて貰ひたい、さうなつたら此度の事の萌芽が知れやうと云つた切《きり》、口を噤《つぐ》んでしまつた。一成、十太夫は主人右衞門佐に逆意があるなどゝは跡形もない事で、なぜ利章がそんな訴をしたか分からぬと云つた。次で二人は老中側で忠之の越度と認めた廉々《かど/\》に就いて、事實
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