章の身邊には家來が何人位ゐたか、又武具があつたかと問うた。二人の答は、家來は二十人ばかりゐて、我等の前後左右を取り卷き、武具も出してあつたと云ふことであつた。忠之は城内|焚火《たきび》の間《ま》で、使の此《この》答を聞いてゐたが、思ひ定めたらしい氣色《けしき》で、兎《と》に角《かく》栗山が邸へ押し懸《か》けて往くから、一同用意せいと云ひ棄てゝ奥に入つた。諸侍は家々へ武具を取りに遣る。噂《うはさ》は忽《たちま》ち城下に廣《ひろ》まつて、番頭組《ばんがしらぐみ》の者や若侍は次第に利章が邸の前へ詰め懸けた。此時老臣の中で、當時|道柏《だうはく》と名告《なの》つてゐた井上|周防之房《すはうこれふさ》と、小河内藏允《をがうくらのじよう》との二人が、忠之の袂《たもと》に縋《すが》つて、それは餘り輕々しい、江戸へ聞こえても如何《いかが》である、利章をば我々が受け合つてどうにも處置しよう、切腹させよとなら切腹もさせようと云つて諫《いさ》めた。忠之はやうやう靜まつた。井上、小河の二人は次へ出て、利章方へ一人たりとも參つてはならぬと觸れ、利章の邸の前に往つてゐた者共を、利章の姉婿《あねむこ》で、當時|睡鴎《すゐあう》と名告つてゐた黒田|美作《みまさく》が邸と、其向側の評定所《ひやうぢやうしよ》とへ引き上げさせた。翌十四日に井上、小河は城内の事を利章に告げた。利章はすぐに剃髪《ていはつ》して、妻と二男吉次郎とを人質として城内へ送つた。人質は利章の外舅《ぐわいきう》黒田兵庫に預けられた。利章が徳川の目附竹中に宛てた密書を、忠之が手に入れたのは其翌日の事である。
忠之も城内に出仕してゐた諸侍も、利章がかう云ふ書面を書いたのを意外に思つた。徳川家に対して叛逆をしようと云ふ念が、忠之に無いのは言ふまでもない。異心を懷《いだ》かぬのに、何事をか捉《とら》へて口實にして、異心あるやうに、認められはすまいかと云ふのが、當時の大名の斷えず心配してゐる所である。慶長十四年に藤堂佐渡守高虎《とうだうさどのかみたかとら》が率先して妻子を江戸に置くことにしたのを始として、元和《げんな》元年大阪落城の後、黒田家でも忠之の父|長政《ながまさ》が、夫人|保科《ほしな》氏に長女とく、二男犬萬、三男萬吉の三人を添へて江戸に置くことにした。保科氏は現に當主のよめ久松氏と一しよに江戸にゐる。これもどうにかして徳川氏に対して
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