日も雨が降ったので滞留した。そして二十四日に高野山に登った。山で逢ったものもある。二十六日の夕方には、下山して橋本にいたのを人が見た。それからは行方不明になっている。多分四国へでも渡ったかと云うことである。

 松坂の目代にこの顛末《てんまつ》を聞いた時、この坊主になった定右衛門の伜亀蔵が敵だと云うことに疑を挾《はさ》むものは、主従三人の中《うち》に一人もなかった。宇平はすぐに四国へ尋ねに往こうと云った。しかし九郎右衛門がそれを止めて、四国へ渡ったかも知れぬと云うのは、根拠のない推量である、四国へもいずれ往くとして、先ず手近な土地から捜すが好いと云った。
 一行は松坂を立って、武運を祈るために参宮した。それから関を経て、東海道を摂津国《せっつのくに》大阪に出て、ここに二十三日を費した。その間に松坂から便《たより》があって、紀州の定右衛門が伜の行末を心配して、気病《きやみ》で亡くなったと云う事を聞いた。それから西宮《にしのみや》、兵庫《ひょうご》を経て、播磨国《はりまのくに》に入《い》り、明石《あかし》から本国姫路に出て、魚町《うおまち》の旅宿に三日いた。九郎右衛門は伜の家があっても、本意を遂げるまでは立ち寄らぬのである。それから備前国《びぜんのくに》に入り、岡山を経て、下山《しもやま》から六月十六日の夜舟に乗って、いよいよ四国へ渡った。松坂以来九郎右衛門の捜索|方鍼《ほうしん》に対して、稍《やや》不満らしい気色を見せながら、つまりは意志の堅固な、機嫌に浮沈《うきしずみ》のない叔父に威圧せられて、附いて歩いていた宇平が、この時急に活気を生じて、船中で夜の更《ふ》けるまで話し続けた。
 十六日の朝舟は讃岐国丸亀《さぬきのくにまるがめ》に着いた。文吉に松尾を尋ねさせて置いて、二人は象頭山《ぞうずさん》へ祈願に登った。すると参籠人《さんろうにん》が丸亀で一癖ありげな、他所者《たしょもの》の若い僧を見たと云う話をした。宇平はもう敵を見附けたような気になって、亥《い》の刻に山を下った。丸亀に帰って、文吉を松尾から呼んで僧を見させたが、それは別人であった。
 伊予国《いよのくに》の銅山は諸国の悪者の集まる所だと聞いて、一行は銅山を二日捜した。それから西条に二日、小春《こはる》、今治《いまばり》に二日いて、松山から道後の温泉に出た。ここへ来るまでに、暑《あつさ》を侵《おか》して旅行をした宇平は留飲疝通《りゅういんせんつう》に悩み、文吉も下痢して、食事が進まぬので、湯町で五十日の間保養した。大分体が好くなったと云って、中大洲《なかおおす》を二日捜して、八幡浜《やはたはま》に出ると、病後を押して歩いた宇平が、力抜けがして煩《わずら》った。そこで五日間滞留して、ようよう九州行の舟に乗ることが出来た。四国の旅は空《むな》しく過ぎたのである。

 舟は豊後国佐賀関《ぶんごのくにさがのせき》に着いた。鶴崎《つるさき》を経て、肥後国《ひごのくに》に入り、阿蘇山《あそさん》の阿蘇神宮、熊本の清正公《せいしょうこう》へ祈願に参って、熊本と高橋とを三日ずつ捜して、舟で肥前国《ひぜんのくに》島原に渡った。そこに二日いて、長崎へ出た。長崎で三日目に、敵らしい僧を島原で見たと云う話を聞いて、引き返して又島原を五日尋ねた。それから熊本を更に三日、宇土を二日、八代《やつしろ》を一日、南工宿《なんくじゅく》を二日尋ねて、再び舟で肥前国|温泉嶽《おんせんだけ》の下の港へ渡った。すると長崎から来た人の話に、敵らしい僧の長崎にいることを聞いた。長崎|上筑後町《かみちくごまち》の一向宗《いっこうしゅう》の寺に、勧善寺と云うのがある。そこへ二十歳前後の若い僧が来て、棒を指南していると云うのである。一行は又長崎行の舟に乗った。
 長崎に着いたのは十一月八日の朝である。舟引地町《ふなひきじまち》の紙屋と云う家に泊って、町年寄《まちどしより》福田某に尋人《たずねにん》の事を頼んだ。ここで聞けば、勧善寺の客僧はいよいよ敵らしく思われる。それは紀州|産《うまれ》のもので、何か人目を憚《はばか》るわけがあると云って、門外不出で暮していると云うのである。親切な町年寄は、若し取り逃がしてはならぬと云って、盗賊方二|人《にん》を同行させることにした。町で剣術師範をしている小川某と云うものも、町年寄の話を聞いて、是非その場に立ち会って、場合に依っては助太刀がしたいと申し込んだ。
 九郎右衛門、宇平の二人は、大村家の侍で棒の修行を懇望《こんもう》するものだと云って、勧善寺に弟子入の事を言い入れた。客僧は承引して、あすの巳《み》の刻に面会しようと云った。二人は喜び勇んで、文吉を連れて寺へ往く。小川と盗賊方の二人とは跡に続く。さて文吉に合図を教えて客僧に面会して見ると、似も寄らぬ人であった。ようようその場を取り繕って寺を出たが、皆|忌々《いまいま》しがる中に、宇平は殊《こと》に落胆した。
 一行は福田、小川等に礼を言って長崎を立って、大村に五日いて佐賀へ出た。この時九郎右衛門が足痛を起して、杖《つえ》を衝《つ》いて歩くようになった。筑後国《ちくごのくに》では久留米《くるめ》を五日尋ねた。筑前国では先《ま》ず大宰府天満宮に参詣《さんけい》して祈願を籠め、博多《はかた》、福岡に二日いて、豊前国|小倉《こくら》から舟に乗って九州を離れた。

 長門国《ながとのくに》下関に舟で渡ったのが十二月六日であった。雪は降って来る。九郎右衛門の足痛は次第に重るばかりである。とうとう宇平と文吉とで勧めて、九郎右衛門を一旦《いったん》姫路へ帰すことにした。九郎右衛門は渋りながら下関から舟に乗って、十二月十二日の朝播磨国|室津《むろのつ》に着いた。そしてその日のうちに姫路の城下|平《ひら》の町《まち》の稲田屋に這入《はい》った。本意を遂げるまでは、飽くまでも旅中の心得でいて、倅の宅には帰らぬのである。
 宇平は九郎右衛門を送って置いて、十二月十日に文吉を連れて下関を立った。それから周防国《すおうのくに》宮市に二日いて、室積《むろづみ》を経て、岩国の錦帯橋へ出た。そこを三日捜して、舟で安芸国《あきのくに》宮島へ渡った。広島に八日いて、備後国《びんごのくに》に入り、尾の道、鞆《とも》に十七日、福山に二日いた。それから備前国岡山を経て、九郎右衛門の見舞|旁《かたがた》姫路に立ち寄った。
 宇平、文吉が姫路の稲田屋で九郎右衛門と再会したのは、天保六年|乙未《きのとひつじ》の歳正月二十日であった。丁度その時|広岸《こうがん》(広峯)山《ざん》の神主《かんぬし》谷口某と云うものが、怪しい非人の事を知らせてくれたので、九郎右衛門が文吉を見せに遣った。非人は石見産《いわみうまれ》だと云っていた。人に怪まれるのは脇差を持っていたからであった。しかし敵ではなかった。
 九郎右衛門の足はまだなかなか直らぬので、宇平は二月二日に文吉を連れて姫路を立って、五日に大阪に着いた。宿は阿波座《あわざ》おくひ町の摂津国屋《つのくにや》である。然るに九郎右衛門は二人を立たせてから間もなく、足が好くなって、十四日には姫路を立って、明石から舟に乗って、大阪へ追いかけて往った。

 三人は摂津国屋に泊って、所々を尋ね廻るうちに、路銀が尽きそうになった。そこで宿屋の主人の世話で、九郎右衛門は按摩《あんま》になり、文吉は淡島《あわしま》の神主になった。按摩になったのは、柔術の心得があるから、按摩の出来ぬ筈はないと云うのであった。淡島の神主と云うのは、神社で神に仕えるものではない。胸に小さい宮を懸けて、それに紅《もみ》で縫った括猿《くくりざる》などを吊《つ》り下げ、手に鈴を振って歩く乞食《こじき》である。
 その時九郎右衛門、宇平の二人は文吉に暇《いとま》を遣ろうとして、こう云った。これまでも我々は只お前と寝食を共にすると云うだけで、給料と云うものも遣らず、名のみ家来にしていたのに、お前は好く辛抱して勤めてくれた。しかしもう日本全国をあらかた遍歴して見たが、敵はなかなか見附からない。この按排《あんばい》では我々が本意を遂げるのは、いつの事か分らない。事によったらこのまま恨《うらみ》を呑《の》んで道路にのたれ死をするかも知れない。お前はこれまで詞《ことば》で述べられぬ程の親切を尽してくれたのだから、どうもこの上一しょにいてくれとは云い兼ねる。勿論《もちろん》敵の面体《めんてい》を見識らぬ我々は、お前に別れては困るに違ないが、もはや是非に及ばない。只運を天に任せて、名告《なの》り合う日を待つより外はない。お前は忠実この上もない人であるから、これから主取《しゅうどり》をしたら、どんな立身も出来よう。どうぞここで別れてくれと云うのであった。
 九郎右衛門は兼て宇平に相談して置いて、文吉を呼んでこの申渡《もうしわたし》をした。宇平は側《そば》で腕組をして聞いていたが、涙は頬を伝って流れていた。
 黙って衝《つ》っ伏《ぷ》して聞いていた文吉は、詞の切れるのを待って、頭を擡《もた》げた。※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った目は異様に赫《かがや》いている。そして一声「檀那《だんな》、それは違います」と叫んだ。心は激して詞はしどろであったが、文吉は大凡《おおよそ》こんなことを言った。この度《たび》の奉公は当前《あたりまえ》の奉公ではない。敵討の供に立つからは、命はないものである。お二人が首尾好く本意を遂げられれば好し、万一敵に多勢の悪者でも荷担して、返討《かえりうち》にでも逢われれば、一しょに討たれるか、その場を逃れて、二重の仇《あだ》を討つかの二つより外ない。足腰の立つ間は、よしやお暇が出ても、影の形に添うように離れぬと云うのであった。
 さすがの九郎右衛門も詞の返しようがなかった。宇平は蘇《よみがえ》った思《おもい》をした。
 それからは三人が摂津国屋を出て、木賃宿《きちんやど》に起臥《おきふし》することになった。もうどこをさして往って見ようと云う所もないので、只|已《や》むに勝《まさ》る位の考で、神仏の加護を念じながら、日ごとに市中を徘徊《はいかい》していた。
 そのうち大阪に咳逆《がいぎゃく》が流行して、木賃宿も咳《せき》をする人だらけになった。三月の初に宇平と文吉とが感染して、熱を出して寝た。九郎右衛門は自分の貰った銭で、三人が一口ずつでも粥《かゆ》を啜《すす》るようにしていた。四月の初に二人が本復すると、こん度は九郎右衛門が寝た。体は巌畳《がんじょう》でも、年を取っているので、容体《ようだい》が二人より悪い。人の好い医者を頼んで見て貰うと、傷寒《しょうかん》だと云った。それは熱が高いので、譫語《うわこと》に「こら待て」だの「逃がすものか」だのと叫んだからである。
 木賃宿の主人が迷惑がるのを、文吉が宥《なだ》め賺《すか》して、病人を介抱しているうちに、病附《やみつき》の急劇であったわりに、九郎右衛門の強い体は少い日数《ひかず》で病気に打ち勝った。

 九郎右衛門の恢復《かいふく》したのを、文吉は喜んだが、ここに今一つの心配が出来た。それは不断から機嫌の変わり易《やす》い宇平が、病後に際立《きわだ》って精神の変調を呈して来たことである。
 宇平は常はおとなしい性《たち》である。それにどこか世馴れぬぼんやりした所があるので、九郎右衛門は若殿と綽号《あだな》を附けていた。しかしこの若者は柔い草葉の風に靡《なび》くように、何事にも強く感動する。そんな時には常蒼《つねあお》い顔に紅《くれない》が潮《ちょう》して来て、別人のように能弁になる。それが過ぎると反動が来て、沈鬱《ちんうつ》になって頭を低《た》れ手を拱《こまね》いて黙っている。
 宇平がこの性質には、叔父も文吉も慣れていたが、今の様子はそれとも変って来ているのである。朝夕《ちょうせき》平穏な時がなくなって、始終興奮している。苛々《いらいら》したような起居振舞《たちいふるまい》をする。それにいつものような発揚の状態になって、饒舌《おしゃべり》をすることは絶えて無い。寧《むしろ》沈黙勝だと云っても好い。只興
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