細川家の邸をさして駆けて行ったが、もう豊島町は火になっていた。「あぶないあぶない」「姉さん火の中へ逃げちゃあいけねえ」などと云うものがある。とうとう避難者や弥次馬《やじうま》共の間に挟《はさ》まれて、身動《みうごき》もならぬようになる。頭の上へは火の子がばらばら落ちて来る。りよは涙ぐんで亀井町の手前から引き返してしまった。内へはもう叔父が浜町から帰って、荷物を片附けていた。
 浜町も矢の倉に近い方は大部分焼けたが、幸《さいわい》に酒井家の添邸は焼け残った。神戸家へ重々《かさねがさね》世話になるのは気の毒だと云うので、宇平一家はやはり遠い親戚に当る、添邸の山本平作方へ、八日の辰《たつ》の刻過に避難した。

 三右衛門が遺族は山本平作方の部屋を借りて、夢の中で夢を見るような心持になって、ぼんやりしている。未亡人は頭痛が起って寝たきりである。宇平は腕組をして何やら考え込む。只《ただ》りよ一人平作の家族に気兼《きがね》をしながら、甲斐々々《かいがい》しく立ち働いていたが、午頃《ひるごろ》になって細川の奥方の立退所《たちのきじょ》が知れたので、すぐに見舞に往った。
 晩にりよが帰ると九郎右衛門が云った。「おい。もう当分我々は家なんぞはいらんが、若殿が旅に出て風を引かぬように、支度だけはして遣《や》らんではならんぞ」叔父は宇平を若殿々々と呼んで揶揄《からか》っているのである。
「はい」と云ったりよは、その晩から宇平の衣類に手を着けた。
 九日にはりよが旅支度にいる物を買いに出た。九郎右衛門が書附にして渡したのである。きょうは風が南に変って、珍らしく暖いと思っていると、酉《とり》の上刻に又|檜物町《ひものちょう》から出火した。おとつい焼け残った町家《まちや》が、又この火事で焼けた。
 十日には又寒い西北の風が強く吹いていると、正午に大名小路《だいみょうこうじ》の松平伯耆守宗発《まつだいらほうきのかみむねあきら》の上邸から出火して、京橋方面から芝口へ掛けて焼けた。
 続いて十一日にも十二日にも火事がある。物価の高いのに、災難が引き続いてあるので、江戸中人心|恟々《きょうきょう》としている。山本方で商人に注文した、少しばかりの品物にも、思い掛けぬ手違《てちがえ》が出来て、りよが幾ら気を揉《も》んでも、支度がなかなかはかどらない。
 或る日九郎右衛門は烟草《たばこ》を飲みながら、りよの裁縫するのを見ていたが、不審らしい顔をして、烟管《きせる》を下に置いた。「なんだい。そんなちっぽけな物を拵《こしら》えたって、しようがないじゃないか。若殿はのっぽでお出《いで》になるからなあ」
 りよは顔を赤くした。「あの、これはわたくしので」縫っているのは女の脚絆甲掛《きゃはんこうがけ》である。
「なんだと」叔父は目を大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。「お前も武者修業に出るのかい」
「はい」と云ったが、りよは縫物の手を停《と》めない。
「ふん」と云って、叔父は良《やや》久《ひさ》しく女姪《めい》の顔を見ていた。そしてこう云った。「そいつは駄目だ。お前のような可哀らしい女の子を連れて、どこまで往くか分からん旅が出来るものか。敵《かたき》にはどこで出逢うか、何年立って出逢うか、まるで当《あて》がないのだ。己《おれ》と宇平とは只それを捜しに行くのだ。見附かってからお前に知らせれば好《い》いじゃないか」
「仰《おっし》ゃる通《とおり》、どこでお逢になるか知れませんのに、きっと江戸へお知らせになることが出来ましょうか。それに江戸から参るのを、きっとお待になることが出来ましょうか」罪のないような、狡猾《こうかつ》らしいような、くりくりした目で、微笑を帯びて、叔父の顔をじっと見た。
 叔父は少からず狼狽《ろうばい》した。「なる程。それは時と場合とに依る事で、わしもきっととは云い兼ねる。出来る事なら、どうにでもしてお前をその場へ呼んで遣るのだ。万一間に合わぬ事があったら、それはお前が女に生れた不肖《ふしょう》だと、諦《あきら》めてくれるより外ない」
「それ御覧遊ばせ。わたくしはどうしてもその万一の事のないようにいたしとうございます。女は連れて行かれぬと仰ゃるなら、わたくしは尼になって参ります」
「まあ、そう云うな。尼も女じゃからのう」
 りよは涙を縫物の上に落して、黙っている。叔父は一面|詞《ことば》を尽して慰めたが、一面女は連れて行かぬと、きっぱり言い渡した。りよは涙を拭《ふ》いて、縫いさした脚絆をそっと側《そば》にあった風呂敷包《ふろしきづつみ》の中にしまった。

 酒井忠実は月番老中大久保|加賀守忠真《かがのかみただざね》と三奉行とに届済《とどけずみ》の上で、二月二十六日附を以《もっ》て、宇平、りよ、九郎右衛門の三人に宛てた、大目附連署の証文を渡して、敵討を許した。「早々本意を達し可立帰《たちかへるべし》、若《もし》又敵人|死候《しにさふら》はば、慥《たしか》なる証拠を以可申立《もってまをしたつべし》」と云う沙汰である。三人には手当が出る。留守へは扶持《ふち》が下がる。りよはお許は出ても、敵を捜しには旅立たぬことになって見れば、これで未亡人とりよとの、江戸での居所《いどころ》さえ極《き》めて置けば、九郎右衛門、宇平の二人は出立することが出来るのである。
 りよは小笠原邸の原田夫婦が一先《ひとまず》引き取ることになった。病身な未亡人は願済《ねがいずみ》の上で、里方桜井須磨右衛門の家で保養することになった。
 さていよいよ九郎右衛門、宇平の二人が門出《かどで》をしようとしたが、二人共敵の顔を識らない。人相書だけをたよりにするのは、いかにも心細いので、口入宿の富士屋や、請宿《うけやど》の若狭屋へ往って、色々問い質《ただ》したが、これと云う事実も聞き出されない。それに容貌が分からぬばかりでなく、生国も紀州だとは云っているが、確《しか》としたことは分からぬらしい。只酒井家に奉公する前には、上州高崎にいたことがあると云うだけである。
 その時、山本平作方へ突然尋ねて来た男がある。この男は近江国《おうみのくに》浅井郡の産《うまれ》で、少《わか》い時に江戸に出て、諸家に仲間《ちゅうげん》奉公をしているうちに、丁度亀蔵と一しょに酒井家の表小使をして、三右衛門には世話になったこともあるので、若しお役に立つようなら、幸《さいわい》今は酒井家から暇《いとま》を取っているから、敵の見識人《みしりにん》として附いて行っても好《よ》いと云うのである。名は文吉と云って、四十二歳になる。体は丈夫で、渡者《わたりもの》の仲間には珍らしい、実直なものだと云うことが、一目見て分かった。
 九郎右衛門が会って話をして見て、すぐに宇平の家来に召し抱《かか》えることにした。

 九郎右衛門、宇平、文吉の三人は二十九日に菩提所遍立寺から出立することに極めて、前日に浜町の山本平作方を引き払って、寺へ往った。そこへは病気のまだ好くならぬ未亡人の外、りよを始、親戚一同が集まって来て、先ず墓参をして、それから離別の盃《さかずき》を酌《く》み交《かわ》した。住持はその席へ蕎麦《そば》を出して、「これは手討のらん切《ぎり》でございます」と、茶番めいた口上を言った。親戚は笑い興じて、只一人打ち萎《しお》れているりよを促し立てて帰った。
 寺に一夜《ひとよ》寝て、二十九日の朝三人は旅に立った。文吉は荷物を負って一歩跡を附いて行く。亀蔵が奉公前にいたと云うのをたよりにして、最初|上野国《こうずけのくに》高崎をさして往くのである。
 九郎右衛門も宇平も文吉も、高崎をさして往くのに、亀蔵が高崎にいそうだと云う気にはなっていない。どこをさして往こうと云う見当が附かぬので、先ず高崎へでも往って見ようと思うに過ぎない。亀蔵と云う、無頼漢とも云えば云われる、住所不定の男のありかを、日本国中で捜そうとするのは、米倉の中の米粒一つを捜すようなものである。どの俵に手を着けて好いか分からない。然しそれ程の覚束《おぼつか》ない事が、一方から見れば、是非共|為遂《しと》げなくてはならぬ事である。そこで一行は先ず高崎と云う俵をほどいて見ることにした。
 高崎では踪跡《そうせき》が知れぬので、前橋へ出た。ここには榎町《えのきまち》の政淳寺《せいじゅんじ》に山本家の先祖の墓がある。九郎右衛門等はそれに参って成功を祈った。そこから藤岡に出て、五六日いた。そこから武蔵国《むさしのくに》の境を越して、児玉村に三日いた。三峯山《みつみねさん》に登っては、三峯|権現《ごんげん》に祈願を籠《こ》めた。八王子を経て、甲斐国《かいのくに》に入って、郡内、甲府を二日に廻って、身延山《みのぶさん》へ参詣《さんけい》した。信濃国《しなののくに》では、上諏訪《かみすわ》から和田峠を越えて、上田の善光寺に参った。越後国《えちごのくに》では、高田を三日、今町を二日、柏崎《かしわざき》、長岡を一日、三条、新潟を四日で廻った。そこから加賀街道に転じて、越中国《えっちゅうのくに》に入って、富山に三日いた。この辺は凶年の影響を蒙《こうむ》ることが甚《はなはだ》しくて、一行は麦に芋大根を切り交ぜた飯を食って、農家の土間に筵《むしろ》を敷いて寝た。飛騨国《ひだのくに》では高山に二日、美濃国《みののくに》では金山《かなやま》に一日いて、木曽路《きそじ》を太田に出た。尾張国《おわりのくに》では、犬山に一日、名古屋に四日いて、東海道を宮に出て、佐屋を経て伊勢国《いせのくに》に入り、桑名、四日市、津を廻り、松坂に三日いた。

 一行が二日以上泊るのは、稀に一日の草臥休《くたびれやすみ》をすることもあるが、大抵何か手掛りがありそうに思われるので、特別捜索をするのである。松坂では殿町に目代《もくだい》岩橋某と云うものがいて、九郎右衛門等の言うことを親切に聞き取って、綿密な調べをしてくれた。その調べ上げた事実を言って聞せられた時は、一行は暗中に燈火《ともしび》を認めたような気がしたのである。
 松坂に深野屋佐兵衛と云う大商人《おおしょうにん》がある。そこへは紀伊国熊野浦《きいのくにくまのうら》長島外町の漁師|定右衛門《さだえもん》と云うものが毎日|魚《うお》を送ってよこす。その縁で佐兵衛は定右衛門一|家《け》と心安くなっている。然るに定右衛門の長男亀蔵は若い時江戸へ出て、音信《いんしん》不通になったので、二男定助一人をたよりにしている。その亀蔵が今年正月二十一日に、襤褸《ぼろ》を身に纏《まと》って深野屋へ尋ねて来た。佐兵衛は「お前のような不孝者を、親父様《おやじさま》に知らせずに留めて置く事は出来ぬ」と云った。亀蔵はすごすご深野屋の店を立ち去ったが、それを見たものが、「あれは紀州の亀蔵と云う男で、なんでも江戸で悪い事をして、逃げて来たのだろう」と評判した。
 後に深野屋へ聞えた所に依ると、亀蔵は正月二十四日に、熊野|仁郷村《にんごうむら》にいるははかたの小父林助の家に来て、置いてくれと頼んだが、林助は貧乏していて、人を置くことが出来ぬと云って、勧めて父定右衛門が許《もと》へ遣《や》った。知人にたよろうとし、それが※[#「りっしんべん+(はこがまえ<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》わぬ段になって、始めて親戚をおとずれ、親戚にことわられて、亀蔵はようよう親許へ帰る気になったらしい。定右衛門の家には二十八日に帰った。
 二月中旬に亀蔵は江戸で悪い事をして帰ったのだろうと云う噂《うわさ》が、松坂から定右衛門の方へ聞えた。定右衛門が何をしたかと問うた時、亀蔵は目上の人に創を負わせたと云った。そこで定右衛門と林助とで、亀蔵を坊主にして、高野山《こうやさん》に登らせることにした。二人が剃髪《ていはつ》した亀蔵を三浦坂まで送って別れたのが二月十九日の事である。亀蔵はその時茶の弁慶縞《べんけいじま》の木綿綿入を着て、木綿帯を締め、藍《あい》の股引《ももひき》を穿《は》いて、脚絆を当てていた。懐中には一両持っていた。
 亀蔵は二十二日に高野領清水村の又兵衛と云うものの家に泊って、翌二十三
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング