戚は笑い興じて、只一人打ち萎《しお》れているりよを促し立てて帰った。
 寺に一夜《ひとよ》寝て、二十九日の朝三人は旅に立った。文吉は荷物を負って一歩跡を附いて行く。亀蔵が奉公前にいたと云うのをたよりにして、最初|上野国《こうずけのくに》高崎をさして往くのである。
 九郎右衛門も宇平も文吉も、高崎をさして往くのに、亀蔵が高崎にいそうだと云う気にはなっていない。どこをさして往こうと云う見当が附かぬので、先ず高崎へでも往って見ようと思うに過ぎない。亀蔵と云う、無頼漢とも云えば云われる、住所不定の男のありかを、日本国中で捜そうとするのは、米倉の中の米粒一つを捜すようなものである。どの俵に手を着けて好いか分からない。然しそれ程の覚束《おぼつか》ない事が、一方から見れば、是非共|為遂《しと》げなくてはならぬ事である。そこで一行は先ず高崎と云う俵をほどいて見ることにした。
 高崎では踪跡《そうせき》が知れぬので、前橋へ出た。ここには榎町《えのきまち》の政淳寺《せいじゅんじ》に山本家の先祖の墓がある。九郎右衛門等はそれに参って成功を祈った。そこから藤岡に出て、五六日いた。そこから武蔵国《むさしのくに》
前へ 次へ
全54ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング