》二、扇二本、包之内《つつみのうち》」を賜った。
 九郎右衛門が事に就いては、酒井忠学から家老本多|意気揚《いきり》へ、「九郎右衛門は何の思召《おぼしめし》も無之《これなく》、以前之通可召出《いぜんのとほりめしいだすべし》、且行届候段満足褒美可致《かつゆきとどきそろだんまんぞくほうびいたすべし》、別段之思召を以て御紋附|麻上下被下置《あさがみしもくだしおかる》」と云う沙汰があった。本多は九郎右衛門に百石遣って、用人の上席にした。りよへも本多から「反物代千疋《たんものだいせんびき》」を贈り、本多の母から「縞縮緬一反、交肴一折《まぜさかなひとをり》」を贈った。
 文吉は酒井家の目附役所に呼び出されて、元表小使、山本九郎右衛門家来と云う資格で、「格段骨折奇特に附、小役人格に被召抱《めしかかへらる》、御宛行金四両《おあておこなひきんよりょう》二人|扶持被下置《ふちくだしおかる》」と達せられた。それから苗字《みょうじ》を深中《ふかなか》と名告《なの》って、酒井家の下邸|巣鴨《すがも》の山番を勤めた。
 この敵討のあった時、屋代《やしろ》太郎|弘賢《ひろかた》は七十八歳で、九郎右衛門、りよに賞美の歌を贈った。
「又もあらじ魂祭《たままつ》るてふ折に逢ひて父兄の仇討《あたう》ちしたぐひは」幸《さいわい》に太田七左衛門が死んでから十二年程立っているので、もうパロヂイを作って屋代を揶揄《からか》うものもなかった。



底本:「山椒大夫・高瀬舟」新潮文庫、新潮社
   1968(昭和43)年5月30日発行
   1985(昭和60)年6月10日41刷改版
   1990(平成2)年5月30日53刷
入力:砂場清隆
校正:菅野朋子
2000年10月17日公開
2006年5月11日修正
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