九郎右衛門はこれだけ聞いて、手早く懐中から早縄を出して、男を縛った。そして文吉に言った。「もうここは好いから、お茶ノ水の酒井亀之進様のお邸へ往ってくれ。口上はこうだ。手前は御当家のお奥に勤めているりよの宿許《やどもと》から参りました。母親が霍乱《かくらん》で夜明《よあけ》まで持つまいと申すことでござります。どうぞ格別の思召《おぼしめし》でお暇を下さって、一目お逢わせ下さるようにと、そう云うのだ。急げ」
「は」と云って、文吉は錦町《にしきちょう》の方角へ駆け出した。
酒井亀之進の邸では、今宵《こよい》奥のひけが遅くて、りよはようよう部屋に帰って、寝巻に着換えようとしている所であった。そこへ老女の使が呼びに来た。
りよは着換えぬうちで好かったと思いながら、すぐに起って上草履《うわぞうり》を穿《は》いて、廊下|伝《づたい》に老女の部屋へ往った。
老女は云った。「お前の宿から使が来ているがね、母親が急病だと云うことだ。盆ではあり、御多用の所だが、親の病気は格別だから、帰ってお出《いで》。親御に逢ったら、夜でもすぐにお邸へ戻るのだよ。あすになってから、又改めてお暇を願って遣るから」
「難有《ありがと》うございます」と、りよはお請《うけ》をして、老女の部屋をすべり出た。
りよはこのまま往っても好いと考えながら、使とは誰が来たのかと、奥の口へ覗きに出た。御用を勤める時の支度で、木綿中形の単物に黒繻子《くろじゅす》の帯を締めていたのである。奥の口でりよは旅支度の文吉と顔を見合せた。そして親の病気が口実だと云うことを悟った。
りよと一しょに奥を下がった傍輩《ほうばい》が二三人、物珍らしげに廊下に集まって、りよが宿の使に逢うのを見ようとしている。
「ちょいと忘物をいたしましたから」と、りよは独言《ひとりごと》のように云って、足を早めて部屋へ引き返した。
部屋の戸を内から締めたりよは、葛籠《つづら》の蓋《ふた》を開けた。先ず取り出したのは着換の帷子《かたびら》一枚である。次に臂《ひじ》をずっと底までさし入れて、短刀を一本取り出した。当番の夜父三右衛門が持っていた脇差である。りよは二品を手早く袱紗《ふくさ》に包んで持って出た。
文吉は敵を掴まえた顛末《てんまつ》を、途中でりよに話しながら、護持院原《ごじいんがはら》へ来た。
りよは九郎右衛門に挨拶して、着換をする余裕はないので、短刀だけを包の中から出した。
九郎右衛門は敵に言った。「そこへ来たのが三右衛門の娘りよだ。三右衛門を殺した事と、自分の国所名前をそこで言え」
敵は顔を挙げてりよを見た。そして云った。「わたしもこれまでだ。本当の事を言います。なる程山本さんに創《きず》を附けたのはわたしだが、殺しはしません。勝負事に負けて金に困ったものですから、どうかして金が取りたいと思って、あんなへまな事をしました。わたしは泉州|生田郡《いくたごおり》上野原村の吉兵衛《きちべえ》と云うものの伜で、名は虎蔵と云います。酒井様へ小使に住み込む時、勝負事で識合《しりあい》になっていた紀州の亀蔵と云う奴の名を、口から出任せに言ったのです。この外に言うことはありません。どうぞ御存分になすって下さい。」
「好く言った」と九郎右衛門は答えた。そしてりよと文吉とに目ぐわせして虎蔵の縄を解いた。三人が三方からじりじりと詰め寄った。
縄をほどかれて、しょんぼり立っていた虎蔵が、ひょいと物をねらう獣のように体を前屈《まえかがみ》にしたかと思うと、突然りよに飛び掛かって、押し倒して逃げようとした。
その時りよは一歩下がって、柄《つか》を握っていた短刀で、抜打に虎蔵を切った。右の肩尖《かたさき》から乳へ掛けて切り下げたのである。虎蔵はよろけた。りよは二太刀三太刀切った。虎蔵は倒れた。
「見事じゃ。とどめは己が刺す」九郎右衛門は乗り掛かって吭《のど》を刺した。
九郎右衛門は刀の血を虎蔵の袖で拭いた。そしてりよにも脇差を拭かせた。二人共目は涙ぐんでいた。
「宇平がこの場に居合せませんのが」と、りよは只一言云った。
九郎右衛門等三人は河岸《かし》にある本多|伊予守頭取《いよのかみとうどり》の辻番所《つじばんしょ》に届け出た。辻番組合月番|西丸御小納戸鵜殿吉之丞《にしまるおこなんどうどのきちのじょう》の家来玉木勝三郎組合の辻番人が聞き取った。本多から大目附に届けた。辻番所組合遠藤|但馬守胤統《たじまのかみたねのり》から酒井|忠学《ただのり》の留守居へ知らせた。酒井家は今年四月に代替《だいがわり》がしているのである。
酒井家から役人が来て、三人の口書《くちがき》を取って忠学に復命した。
翌十四日の朝は護持院原一ぱいの見物人である。敵を討った三人の周囲へは、山本家の親戚が追々《おいおい》馳《は》せ附けた。三人
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