を廻って、観音を拝んで、見識人《みしりにん》を桜井に逢わせて貰った礼を言った。それから蔵前《くらまえ》を両国へ出た。きょうは蒸暑いのに、花火があるので、涼旁《すずみかたがた》見物に出た人が押し合っている。提灯《ちょうちん》に火を附ける頃、二人は茶店で暫く休んで、汗が少し乾くと、又歩き出した。
川も見えず、船も見えない。玉や鍵《かぎ》やと叫ぶ時、群集が項《うなじ》を反《そ》らして、群集の上の花火を見る。
酉《とり》の下刻と思われる頃であった。文吉が背後《うしろ》から九郎右衛門の袖を引いた。九郎右衛門は文吉の視線を辿《たど》って、左手一歩前を行く背の高い男を見附けた。古びた中形《ちゅうがた》木綿の単物《ひとえもの》に、古びた花色|縞博多《しまはかた》の帯を締めている。
二人は黙って跡を附けた。月の明るい夜である。横山町を曲る。塩町《しおちょう》から大伝馬町《おおでんまちょう》に出る。本町を横切って、石町河岸《こくちょうがし》から龍閑橋《りゅうかんばし》、鎌倉河岸《かまくらがし》に掛る。次第に人通が薄らぐので、九郎右衛門は手拭を出して頬被《ほおかぶり》をして、わざとよろめきながら歩く。文吉はそれを扶《たす》ける振《ふり》をして附いて行く。
神田橋外|元護寺院《もとごじいん》二番原に来た時は丁度|子《ね》の刻頃であった。往来はもう全く絶えている。九郎右衛門が文吉に目ぐわせをした。二つの体を一つの意志で働かすように二人は背後《うしろ》から目ざす男に飛び着いて、黙って両腕をしっかり攫《つか》んだ。
「何をしやあがる」と叫んだ男は、振り放そうと身をもがいた。
無言の二人は釘抜《くぎぬき》で釘を挟んだように腕を攫んだまま、もがく男を道傍《みちばた》の立木の蔭へ、引き摩《ず》って往った。
九郎右衛門は強烈な火を節光板で遮ったような声で云った。「己はおとどしの暮お主《ぬし》に討たれた山本三右衛門の弟九郎右衛門だ。国所《くにところ》と名前を言って、覚悟をせい」
「そりゃあ人違だ。おいらあ泉州産《せんしゅううまれ》で、虎蔵と云うものだ。そんな事をした覚《おぼえ》はねえ」
文吉が顔を覗《のぞ》き込んだ。「おい。亀。目の下の黒痣《ほくろ》まで知っている己がいる。そんなしらを切るな」
男は文吉の顔を見て、草葉が霜に萎《しお》れるように、がくりと首を低《た》れた。「ああ。文公か」
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