戸にいることを知らせて遣《や》った手紙である。
 文吉はすぐに玉造へお礼|参《まいり》に往った。九郎右衛門は文吉の帰るのを待って、手分をして大阪の出口々々を廻って見た。宇平の行方を街道の駕籠《かご》の立場《たてば》、港の船問屋《ふなどいや》に就《つ》いて尋ねたのである。しかしそれは皆徒労であった。
 九郎右衛門は是非なく甥《おい》の事を思い棄てて、江戸へ立つ支度をした。路銀は使い果しても、用心金《ようじんきん》と衣類腰の物とには手は着けない。九郎右衛門は花色木綿の単物《ひとえもの》に茶小倉の帯を締め、紺麻絣《こんあさがすり》の野羽織を着て、両刀を手挟《たばさ》んだ。持物は鳶色《とびいろ》ごろふくの懐中物、鼠木綿《ねずみもめん》の鼻紙袋、十手|早縄《はやなわ》である。文吉も取って置いた花色の単物に御納戸《おなんど》小倉の帯を締めて、十手早縄を懐中した。
 木賃宿の主人には礼金を遣り、摂津国屋へは挨拶《あいさつ》に立ち寄って、九郎右衛門主従は六月二十八日の夜船で、伏見から津へ渡った。三十日に大暴風《おおあらし》で阪の下に半日留められた外は、道中なんの障《さわり》もなく、二人は七月十一日の夜品川に着いた。
 十二日|寅《とら》の刻に、二人は品川の宿を出て、浅草の遍立寺《へんりゅうじ》に往って、草鞋《わらじ》のままで三右衛門の墓に参った。それから住持に面会して、一夜《ひとよ》旅の疲を休めた。
 翌十三日は盂蘭盆会《うらぼんえ》で、親戚のものが墓参に来る日である。九郎右衛門は住持に、自分達の来たのを知らせてくれるなと口止をして、自分と文吉とは庫裡《くり》に隠れていた。住持はなぜかと問うたが、九郎右衛門は只「謀《はかりごと》は密なるをとうとぶと申しますからな」と云ったきり、外の話にまぎらした。墓参に来たのは原田、桜井の女房達で、厳《きび》しい武家奉公をしている未亡人やりよは来なかった。
 戌《いぬ》の下刻になった時、九郎右衛門は文吉に言った。「さあ、これから捜しに出るのだ。見附けるまでは足を摺粉木《すりこぎ》にして歩くぞ」

 遍立寺を旅支度のままで出た二人は、先ず浅草の観音をさして往った。雷門近くなった時、九郎右衛門が文吉に言った。「どうも坊主にはなっておらぬらしいが、どんな風体《ふうてい》でいても見逃がすなよ。だがどうせ立派な形《なり》はしていないのだ」
 境内《けいだい》
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