りません」宇平は又膝を進めた。「おじさん。あなたはどうしてそんな平気な様子をしていられるのです」
 宇平のこの詞を、叔父は非常な注意の集中を以《もっ》て聞いていた。「そうか。そう思うのか。よく聴《き》けよ。それは武運が拙《つたな》くて、神にも仏にも見放されたら、お前の云う通だろう。人間はそうしたものではない。腰が起《た》てば歩いて捜す。病気になれば寝ていて待つ。神仏《しんぶつ》の加護があれば敵にはいつか逢われる。歩いて行き合うかも知れぬが、寝ている所へ来るかも知れぬ」
 宇平の口角には微《かす》かな、嘲《あざけ》るような微笑が閃《ひらめ》いた。「おじさん。あなたは神や仏が本当に助けてくれるものだと思っていますか」
 九郎右衛門は物に動ぜぬ男なのに、これを聞いた時には一種の気味悪さを感じた。「うん。それは分からん。分からんのが神仏《かみほとけ》だ」
 宇平の態度は不思議に恬然《てんぜん》としていて、いつもの興奮の状態とは違っている。「そうでしょう。神仏《かみほとけ》は分からぬものです。実はわたしはもう今までしたような事を罷《や》めて、わたしの勝手にしようかと思っています」
 九郎右衛門の目は大きく開いて、眉が高く挙がったが、見る見る蒼ざめた顔に血が升《のぼ》って、拳《こぶし》が固く握られた。
「ふん。そんなら敵討は罷《やめ》にするのか」
 宇平は軽く微笑《ほほえ》んだ。おこったことのない叔父をおこらせたのに満足したらしい。「そうじゃありません。亀蔵は憎い奴ですから、若し出合ったら、ひどい目に逢わせて遣ります。だが捜すのも待つのも駄目ですから、出合うまではあいつの事なんか考えずにいます。わたしは晴がましい敵討をしようとは思いませんから、助太刀もいりません。敵が知れれば知れる時知れるのですから、見識人《みしりにん》もいりません。文吉はこれからあなたの家来にしてお使下さいまし。わたしは近い内にお暇をいたす積です」
 九郎右衛門が怒は発するや否や忽《たちま》ち解けて、宇平のこの詞《ことば》を聞いている間に、いつもの優《やさ》しいおじさんになっていた。只何事をも強《し》いて笑談《じょうだん》に取りなす癖のおじが、珍らしく生真面目《きまじめ》になっていただけである。
 宇平が席を起って、木賃宿の縁側を降りる時、叔父は「おい、待て」と声を掛けたが、宇平の姿はもう見えなかった。しかし
前へ 次へ
全27ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング