奮しているために、瑣細《ささい》な事にも腹を立てる。又何事もないと、わざわざ人を挑《いど》んで詞尻《ことばじり》を取って、怒《いかり》の動機を作る。さて怒が生じたところで、それをあらわに発動させずに、口小言を言って拗《す》ねている。
こう云う状態が二三日続いた時、文吉は九郎右衛門に言った。「若檀那《わかだんな》の御様子はどうも変じゃございませんか」文吉は宇平の事を、いつか若檀那と云うことになっていた。
九郎右衛門は気にも掛けぬらしく笑って云った。「若殿か。あの御機嫌の悪いのは、旨《うま》い物でも食わせると直るのだ」
九郎右衛門のこう云ったのも無理はない。三人は日ごとに顔を見合っていて気が附かぬが、困窮と病痾《びょうあ》と羇旅《きりょ》との三つの苦艱《くげん》を嘗《な》め尽して、どれもどれも江戸を立った日の俤《おもかげ》はなくなっているのである。
文吉がこの話をした翌日の朝であった。相宿《あいやど》のものがそれぞれ稼《かせぎ》に出た跡で、宇平は九郎右衛門の前に膝《ひざ》を進めて、何か言い出しそうにして又黙ってしまった。
「どうしたのだい」と叔父が云った。
「実は少し考えた事があるのです」
「なんでも好いから、そう云え」
「おじさん。あなたはいつ敵に逢えると思っていますか」
「それはお前にも分かるまいが、己《おれ》にも分からんのう」
「そうでしょう。蜘蛛《くも》は網《い》を張って虫の掛かるのを待っています。あれはどの虫でも好いのだから、平気で待っているのです。若し一匹の極《き》まった虫を取ろうとするのだと、蜘蛛の網は役に立ちますまい。わたしはこうして僥倖《ぎょうこう》を当にしていつまでも待つのが厭《いや》になりました」
「随分己もお前も方々歩いて見たじゃないか」
「ええ。それは歩くには歩きましたが」と云い掛けて、宇平は黙った。
「はてな。歩くには歩いたが、何が悪かったと云うのか。構わんから言え」
宇平はやはり黙って、叔父の顔をじっと見ていたが、暫くして云った。「おじさん。わたし共は随分歩くには歩きました。しかし歩いたってこれは見附からないのが当前《あたりまえ》かも知れません。じっとして網を張っていたって、来て掛かりっこはありませんが、歩いていたって、打《ぶ》っ附《つ》からないかも知れません。それを先へ先へと考えてみますと、どうも妙です。わたしは変な心持がしてな
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