む心とを養うより外はない。
たった一度人が彼に憫《あわれ》みを垂れたことがある。それは百姓で、酒屋から家に帰りかかった酔漢であった。この男は目にかかる物を何でも可哀がって、憐れで、ああ人間というものは善いものだ、善い人間が己れのために悪いことをするはずがない、などと口の中で囁《ささや》く癖があった。この男がたまたま酒でちらつく目にこの醜い犬を見付けて、この犬をさえ、良い犬可哀い犬だと思った。
「シュッチュカ」とその男は叫んだ。これは露西亜《ロシア》で毎《つね》に知らぬ犬を呼ぶ名である。「シュッチュカ」、来い来い、何も可怖《こわ》いことはない。
シュッチュカは行っても好いと思った。そこで尻尾を振って居たが、いよいよ行くというまでに決心がつかなかった。百姓は掌で自分の膝を叩いて、また呼んだ。「来いといったら来い。シュッチュカ奴。馬鹿な奴だ。己れはどうもしやしない。」
そこで犬は小股に歩いて、百姓の側へ行掛かった。しかしその間に百姓の考が少し変って来た。それは今まで自分の良い人だと思った人が、自分に種々迷惑をかけたり、自分を侮辱したりした事があると思い出したのだ、それで心持が悪くなって
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