を苦に病んでいて、自分のいる時に持って来たのは大抵受け取らない。
 或日帰って見ると、島村と押問答をしているものがある。相手は百姓らしい風体《ふうてい》の男である。見れば鶏の生きたのを一羽持っている。その男が、石田を見ると、にこにこして傍《そば》へ寄って来て、こう云った。
「少佐殿。お見忘になりましたか知れませんが、戦地でお世話になった輜重輸卒《しちょうゆそつ》の麻生《あそう》でござります。」
「うむ。軍司令部にいた麻生か。」
「はい。」
「どうして来た。」
「予備役になりまして帰っております。内は大里《だいり》でございます。少佐殿におなりになって、こちらへお出《いで》だということを聞きましたので、御機嫌|伺《うかがい》に参りました。これは沢山飼っております内の一羽でござりますが、丁度好い頃のでござりますから、持って上りました。」
「ふむ。立派な鳥だなあ。それは徴発ではあるまいな。」
 麻生は五分刈の頭を掻《か》いた。
「恐れ入ります。ついみんなが徴発徴発と申すもんでござりますから、ああいうことを申しましてお叱《しかり》を受けました。」
「それでも貴様はあれきり、支那《シナ》人の物を取らんようになったから感心だ。」
「全くお蔭《かげ》を持ちまして心得違を致しませんものですから、凱旋《がいせん》いたしますまで、どの位肩身が広かったか知れません。大連《だいれん》でみんなが背嚢《はいのう》を調べられましたときも、銀の簪《かんざし》が出たり、女の着物が出たりして恥を掻く中で、わたくしだけは大息張《おおいばり》でござりました。あの金州《きんしゅう》の鶏なんぞは、ちゃんが、ほい、又お叱を受け損う処でござりました、支那人が逃げた跡に、卵を抱いていたので、主《ぬし》はないのだと申しますのに、そんならその主のない家に持って行って置いて来いと仰《おっし》ゃったのには、実に驚きましたのでござります。」
「はははは。己は頑固だからなあ。」
「どう致しまして。あれがわたくしの一生の教訓になりましたのでござりました。もうお暇《いとま》を致します。
「泊まって行かんか。己の内は戦地と同じで御馳走はないが。」
「奥様はいらっしゃりませんか。」
「妻《さい》は此間《こないだ》死んだ。」
「へえ。それはどうも。」
「島村が知っているが、まるで戦地のような暮らしを遣っているのだ。」
「それは御不自由でいらっしゃりましょう。つまらないことを申し上げて、お召替のお邪魔を致しました。これでお暇を致します。」
 麻生は鶏を島村に渡して、鞋《わらじ》をびちゃびちゃ言わせて帰って行った。
 石田は長靴を脱いで上がる。雨覆を脱いで島村にわたす。島村は雨覆と靴を持って勝手へ行く。石田は西の詰の間に這入って、床の間の前に往って、帽をそこに据えてある将校|行李《こうり》の上に置く。軍刀を床の間に横に置く。これを初て来た日に、お時婆あさんが床の壁に立て掛けて、叱られたのである。立てた物は倒れることがある。倒れれば刀《とう》が傷む。壁にも痍《きず》が附くかも知れないというのである。
 床の間の前には、子供が手習に使うような机が据えてある。その前に毛布が畳んで敷いてある。石田は夏衣袴《なついこ》のままで毛布の上に胡坐《あぐら》を掻いた。そこへ勝手から婆あさんが出て来た。
「鳥はどうしなさりまするかの。」
「飯《めし》の菜《さい》がないのか。」
「茄子《なす》に隠元豆《いんげんまめ》が煮えておりまするが。」
「それで好《い》い。」
「鳥は。」
「鳥は生かして置け。」
「はい。」
 婆あさんは腹の中で、相変らず吝嗇《けち》な人だと思った。この婆あさんの観察した処では、石田に二つの性質がある。一つは吝嗇である。肴《さかな》は長浜の女が盤台《はんだい》を頭の上に載せて売りに来るのであるが、まだ小鯛《こだい》を一度しか買わない。野菜が旨《うま》いというので、胡瓜《きゅうり》や茄子ばかり食っている。酒はまるで呑《の》まない。菓子は一度買って来いと云われて、名物の鶴の子を買って来た処が、「まずいなあ」と云いながら皆平《たいら》げてしまって、それきり買って来いと云わない。今一つは馬鹿だということである。物の直段《ねだん》が分らない。いくらと云っても黙って払う。人が土産を持って来るのを一々返しに遣る。婆あさんは先ずこれだけの観察をしているのである。
 婆あさんが立つとき、石田は「湯が取ってあるか」と云った。「はい」と云って、婆あさんは勝手へ引込んだ。
 石田は、裏側の詰の間に出る。ここには水指《みずさし》と漱茶碗《うがいちゃわん》と湯を取った金盥《かなだらい》とバケツとが置いてある。これは初の日から極めてあるので、朝晩とも同じである。
 石田は先ず楊枝《ようじ》を使う。漱をする。湯で顔を洗う。石鹸《せっけん
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