て来た。そして百日紅の植わっている庭の方の雨戸が疎《まば》らに締まっているのを、がらがらと繰り開けた。庭は内から見れば、割合に広い。爺さんは生垣を指ざして、この辺は要塞《ようさい》が近いので石塀《いしべい》や煉瓦塀《れんがべい》を築くことはやかましいが、表だけは立派にしたいと思って問い合わせてみたら、低い塀は築いても好いそうだから、その内都合をしてどうかしようと思っていると話した。
表通は中《ちゅう》くらいの横町で、向いの平家の低い窓が生垣の透間《すきま》から見える。窓には竹簾《たけすだれ》が掛けてある。その中で糸を引いている音がぶうんぶうんとねむたそうに聞えている。
石田は座布団を敷居の上に敷いて、柱に靠《よ》り掛かって膝《ひざ》を立てて、ポッケットから金天狗《きんてんぐ》を出して一本吸い附けた。爺さんは縁端にしゃがんで何か言っていたが、いつか家の話が家賃の話になり、家賃の話が身の上話になった。この薄井という爺さんは夫婦で西隣に住んでいる。遅く出来た息子が豊津の中学に入れてある。この家を人に貸して、暮しを立てて倅《せがれ》の学資を出さねばならないということである。
それから裏側の方の間取を見た。こちらは西の詰《つめ》が小さい間《ま》になっている。その次が稍《や》や広い。この二間が表側の床の間のある座敷の裏になっている。表側の次の間と玄関との裏が、半ば土間になっている台所である。井戸は土間の隅に掘ってある。
縁側に出て見れば、裏庭は表庭の三倍位の広さである。所々に蜜柑《みかん》の木があって、小さい実が沢山|生《な》っている。縁に近い処には、瓦《かわら》で築いた花壇があって、菊が造ってある。その傍《そば》に円石《まるいし》を畳んだ井戸があって、どの石の隙間《すきま》からも赤い蟹《かに》が覗《のぞ》いている。花壇の向うは畠《はたけ》になっていて、その西の隅に別当部屋の附いた厩《うまや》がある。花壇の上にも、畠の上にも、蜜柑の木の周囲《まわり》にも、蜜蜂《みつばち》が沢山飛んでいるので、石田は大そう蜜蜂の多い処だと思って爺さんに問うて見た。これは爺さんが飼っているので、巣は東側の外壁に弔《つ》り下げてあるのであった。
石田はこれだけ見て、一旦《いったん》爺さんに別れて帰ったが、家はかなり気に入ったので、宿屋のお上《かみ》さんに頼んで、細かい事を取り極めて貰って、二三日立って引き越した。
横浜から舟に載せた馬も着いていたので、別当に引き入れさせた。
勝手道具を買う。膳椀《ぜんわん》を買う。蚊帳《かや》を買う。買いに行くのは従卒の島村である。
家主はまめな爺さんで、来ていろいろ世話を焼いてくれる。膳椀を買うとき、爺さんが問うた。
「何人前いりまするかの。」
「二人前です。」
「下《しも》のもののはいりませんかの。」
「僕のと下女のとで二人前です。従卒は隊で食います。別当も自分で遣《や》るのです。」
蚊帳は自分のと下女のと別当のと三張《みはり》買った。その時も爺さんが問うた。
「布団はいりませんかの。」
「毛布があります。」
万事こんな風である。それでも五十円程掛かった。
女中を傭《やと》うというので、宿屋の達見のお上さんが口入屋《くちいれや》の上さんをよこしてくれた。石田は婆あさんを置きたいという注文をした。時という五十ばかりの婆あさんが来た。夫婦で小学校の教員の弁当をこしらえているもので、その婆あさんの方が来てくれたのだそうだ。不思議に饒舌《しゃべ》らない。黙って台所をしてくれる。
二三日立った。毎日雨は降ったり歇《や》んだりしている。石田は雨覆をはおって馬で司令部に出る。東京から新《あらた》に傭って来た別当の虎吉が、始て伴《とも》をするとき、こう云った。
「旦那《だんな》。馬の合羽《かっぱ》がありませんがなあ。」
「有る。」
「ええ。それは鞍《くら》だけにかぶせる小さい奴ならあります。旦那の膝に掛けるのがありません。」
「そんなものはいらない。」
「それでもお膝が濡れます。どこの旦那も持っています。」
「膝なんざあ濡れても好《い》い。馬装に膝掛なんというものはない。外の人は持っておっても、己《おれ》はいらない。」
「へへへへ。それでは野木さんのお流儀で。」
「己がいらないのだ。野木閣下の事はどうか知らん。」
「へえ。」
その後は別当も敢て言わない。
石田は司令部から引掛《ひきがけ》に、師団長はじめ上官の家に名刺を出す。その頃は都督《ととく》がおられたので、それへも名刺を出す。中には面会せられる方《かた》もある。内へ帰ってみると、部下のものが名刺を置きに来るので、いつでも二三枚ずつはある。商人が手土産なんぞを置いて帰ったのもある。そうすると、石田はすぐに島村に持たせて返しに遣る。それだから、島村は物を貰うの
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