ハ当はあれで麦を量りはしないかと云うのである。婆あさんは、別当の桝を使ったのは見たことがないと云った。石田は「そうか」と云って、ついと部屋に帰った。そして将校行李の蓋を開けて、半切毛布に包んだ箱を出した。Havana の葉巻である。石田は平生|天狗《てんぐ》を呑《の》んでいて、これならどんな田舎《いなか》に行軍をしても、補充の出来ない事はないと云っている。偶《たま》には上等の葉巻を呑む。そして友達と雑談をするとき、「小説家なんぞは物を知らない、金剛石《こんごうせき》入の指環《ゆびわ》を嵌《は》めた金持の主人公に Manila を呑ませる」なぞと云って笑うのである。石田が偶に呑む葉巻を毛布にくるんで置くのは、火薬の保存法を応用しているのである。石田はこう云っている。己《おれ》だって大将にでもなれば、烟草《たばこ》も毎日新しい箱を開けるのだ。今のうちは箱を開けてから一月《ひとつき》も保存しなくてはならないのだから、工夫を要すると云っている。
石田は葉巻に火を附けて、さも愉快げに、一吸《ひとすい》吸って、例の手習机に向った。北向の表庭は、百日紅《さるすべり》の疎《まばら》な葉越に、日が一ぱいにさして、夾竹桃にはもうところどころ花が咲いている。向いの内の糸車は、今日もぶうんぶうんと鳴っている。
石田は床の間の隅に立て掛けてある洋書の中から 〔La Bruye`re〕 の性格という本を抽《ぬ》き出して、短い鋭い章を一つ読んではじっと考えて見る。又一つ読んではじっと考えて見る。五六章も読んだかと思うと本を措《お》いた。
それから舶来の象牙紙《ぞうげし》と封筒との箱入になっているのを出して、ペンで手紙を書き出した。石田はペンと鉛筆とで万事済ませて、硯《すずり》というものを使わない。稀《まれ》に願届なぞがいれば、書記に頼む。それは陸軍に出てから病気|引籠《ひきこもり》をしたことがないという位だから、めったにいらない。
人から来た手紙で、返事をしなくてはならないのは、図嚢《ずのう》の中に入れているのだから、それを出して片端から返事を書くのである。東京に、中学に這入っている息子を母に附けて置いてある。第一に母に遣る手紙を書いた。それから筆を措かずに二つ三つ書いた。そして母の手紙だけを将校行李にしまって、外の手紙は引き裂いてしまった。
午《ひる》になった。飯を済ませて、さっき手紙を書き始めるとき、灰皿の上に置いた葉巻の呑みさしに火を附けて、北表の縁《えん》に出た。空はいつの間にか薄い灰色になっている。汽車の音がする。
「蝙蝠傘《こうもりがさ》張替修繕は好うがすの」と呼んで、前の往来を通るものがある。糸車のぶうんぶうんは相変らず根調をなしている。
石田はどこか出ようかと思ったが、空模様が変っているので、止《や》める気になった。暫くして座敷へ這入って、南アフリカの大きい地図をひろげて、この頃戦争が起りそうになっている Transvaal の地理を調べている。こんな風で一日は暮れた。
三四日立ってからの事である。もう役所は午引《ひるびけ》になっている。石田は馬に蹄鉄《ていてつ》を打たせに遣ったので、司令部から引掛《ひきがけ》に、紫川《むらさきがわ》の左岸《さがん》の狭い道を常磐橋《ときわばし》の方へ歩いていると、戦役《せんえき》以来心安くしていた中野という男に逢った。中野の方から声を掛ける。
「おい。今日は徒歩かい。」
「うむ。鉄を打ちに遣ったのだ。君はどうしたのだ。」
「僕のは海に入れに遣った。」
「そうかい。」
「非常に喜ぶぜ。」
「そんなら僕も一遍遣って見よう。」
「別当が泳げなくちゃあだめだ。」
「泳げるような事を言っていた。」
中野は石田より早く卒業した士官である。今は石田と同じ歩兵少佐で、大隊長をしている。少し太り過ぎている男で、性質から言えば老実家である。馬をひどく可哀《かわい》がる。中野は話を続けた。
「君に逢ったら、いつか言って置こうと思ったが、ここには大きな溝《どぶ》に石を並べて蓋《ふた》をした処があるがなあ。」
「あの馬借《ばしゃく》に往《ゆ》く通だろう。」
「あれだ。魚町《うおまち》だ。あの上を馬で歩いちゃあいかんぜ。馬は人間とは目方が違うからなあ。」
「うむ。そうかも知れない。ちっとも気が附かなかった。」
こんな話をして常磐橋に掛かった。中野が何か思い出したという様子で、歩度を緩めてこう云った。
「おう。それからも一つ君に話しておきたいことがあった。馬鹿な事だがなあ。」
「何だい。僕はまだ来たばかりで、なんにも知らないんだから、どしどし注意を与えてくれ給え。」
「実は僕の内の縁がわからは、君の内の門が見えるので、妻《さい》の奴が妙な事を発見したというのだ。」
「はてな。」
「君が毎日出勤すると、あの門から婆あさ
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