。何町歩とかの畑を持たないでは、鶏を飼ってはならないというのである。然るに借家ずまいをしていて鶏を飼うなんぞというのは僭越《せんえつ》もまた甚《はなはだ》しい。サアベルをさして馬に騎《の》っているものは何をしても好いと思うのは心得違である。大抵こんな筋であって、攻撃余力を残さない。女はこんな事も言う。鶏が何をしているか知らないばかりではない。傭婆《やといば》あさんが勝手の物をごまかして、自分の内の暮しを立てているのも知るまい。別当が馬の麦をごまかして金を溜《た》めようとしているのも知るまい。こういうときは声を一層張り上げる。婆あさんにも別当にも聞せようとするのである。女はこんな事も言う。借家人の為《す》ることは家主の責任である。サアベルが強《こわ》くて物が言えないようなら、サアベルなんぞに始から家を貸さないが好い。声はいよいよ高くなる。薄井の爺さんにも聞せようとするのである。
石田は花壇の前に棒のように立って、しゃべる女の方へ真向《まむき》に向いて、黙って聞いている。顔にはおりおり微笑の影が、風の無い日に木葉《このは》が揺らぐように動く外には、何の表情もない。軍服を着て上官の小言を聞いている時と大抵同じ事ではあるが、少し筋肉が弛《ゆる》んでいるだけ違う。微笑の浮ぶのを制せないだけ違う。
石田はこんな事を思っている。鶏は垣を越すものと見える。坊主が酒を般若湯《はんにゃとう》というということは世間に流布しているが、鶏を鑽籬菜《さんりさい》というということは本を読まないものは知らない。鶏を貰った処が、食いたくもなかったので、生かして置こうと思った。生かして置けば垣も越す。垣を越すかも知れないということまで、初めに考えなかったのは、用意が足りないようではあるが、何を為《す》るにもそんな 〔e'ventualite'〕 を眼中に置いては出来ようがない。鶏を飼うという事実に、この女が怒るという事実が附帯して来るのは、格別驚くべきわけでもない。なんにしろ、あの垣の上に妙な首が載っていて、その首が何の遠慮もなく表情筋を伸縮させて、雄弁を揮《ふる》っている処は面白い。東京にいた時、光線の反射を利用して、卓の上に載せた首が物を言うように思わせる見世物を見たことがあった。あれは見世物師が余り 〔pre'tentieux〕 であったので、こっちの反感を起して面白くなかった。あれよりは此方が余程面白い。石田はこんなことを思っている。
垣の上の女は雄弁家ではある。しかしいかなる雄弁家も一の論題に就いてしゃべり得る論旨には限がある。垣の上の女もとうとう思想が涸渇《こかつ》した。察するに、彼は思想の涸渇を感ずると共に失望の念を作《な》すことを禁じ得なかったであろう。彼は経験上こんな雄弁を弄《ろう》する度に、誰か相手になってくれる。少くも一言くらい何とか言ってくれる。そうすれば、水の流が石に触れて激するように、弁論に張合が出て来る。相手も雄弁を弄することになれば、旗鼓《きこ》相当って、彼の心が飽き足るであろう。彼は石田のような相手には始て出逢ったろう。そして暖簾《のれん》に腕押をしたような不愉快な感じをしたであろう。彼は「ええとも、今度来たら締めてしまうから」と言い放って、境の生垣の蔭へ南瓜《かぼちゃ》に似た首を引込めた。結末は意味の振《ふる》っている割に、声に力がなかった。
「旦那さん。御膳が出来ましたが。」
婆あさんに呼ばれて、石田は朝飯を食いに座敷へ戻った。給仕をしながら婆あさんが、南裏の上さんは評判の悪者で、誰も相手にならないのだというような意味の事を話した。石田はなるたけ鳥を伏籠に伏せて置くようにしろと言い付けた。その時婆あさんは声を低うしてこういうことを言った。主人の買って来た、白い牝鶏が今朝は卵を抱いている。別当も白い牝鶏の抱いているのを、外の牝鶏が生んだのだとは言いにくいと見えて黙っている。卵をたった一つ孵《かえ》させるのは無駄だから、取って来ようかと云うのである。石田は、「抱いているなら構わずに抱かせて置け」と云った。
石田は飯を済ませてから、勝手へ出て見た。まだ縁の下の鳥屋《とや》の出来ない内に寝かしたことのある、台所の土間の上の棚が藁《わら》を布《し》いたままになっていた。白い牝鶏はその上に上がっている。常からむくむくした鳥であるのが、羽を立てて体をふくらまして、いつもの二倍位の大《おおき》さになって、首だけ動かしてあちこちを見ている。茶碗を洗っていた婆あさんが来て鳥の横腹をつつく。鳥は声を立てる。石田は婆あさんの方を見て云った。
「どうするのだ。」
「旦那さんに玉子を見せて上ぎょうと思いまして。」
「廃《よ》せ。見んでも好い。」
石田は思い出したように、婆あさんにこう云うことを問うた。世帯を持つとき、桝《ます》を買った筈だが、
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