》は七十銭位の舶来品を使っている。何故《なぜ》そんな贅沢《ぜいたく》をするかと人が問うと、石鹸は石鹸でなくてはいけない、贋物《にせもの》を使う位なら使わないと云っている。五分刈頭を洗う。それから裸になって体じゅうを丁寧に揩《ふ》く。同じ金盥で下湯《しもゆ》を使う。足を洗う。人が穢《きたな》いと云うと、己の体は清潔だと云っている。湯をバケツに棄てる。水をその跡に取って手拭を洗う。水を棄てる。手拭を絞って金盥を揩《ふ》く。又手拭を絞って掛ける。一日に二度ずつこれだけの事をする。湯屋には行かない。その代り戦地でも舎営をしている間は、これだけの事を廃《よ》せないのである。
石田は襦袢袴下《じゅばんこした》を着替えて又夏衣袴を着た。常の日は、寝巻に湯帷子《ゆかた》を着るまで、このままでいる。それを客が来て見て、「野木さんの流義か」と云うと、「野木閣下の事は知らない」と云うのである。
机の前に据わる。膳が出る。どんなにゆっくり食っても、十五分より長く掛かったことはない。
外を見れば雨が歇《や》んでいる。石田は起《た》って台所に出た。飯を食っている婆あさんが箸《はし》を置くのを見て「用ではない」と云いながら、土間に降りる縁《えん》に出た。土間には虎吉が鳥に米を蒔《ま》いて遣って、蹲《しゃが》んで見ている。石田も鳥を見に出たのである。
大きな雄鶏《おんどり》である。総身の羽が赤褐色で、頸《くび》に柑子《こうじ》色の領巻《くびまき》があって、黒い尾を長く垂れている。
虎吉は人の悪そうな青黒い顔を挙げて、ぎょろりとした目で主人を見て、こう云った。
「旦那。こいつは肉が軟《やわらか》ですぜ。」
「食うのではない。」
「へえ。飼って置くのですか。」
「うむ。」
「そんなら、大屋さんの物置に伏籠《ふせご》の明いているのがあったから、あれを借りて来ましょう。」
「買うまでは借りても好い。」
こう云って置いて、石田は居間に帰って、刀を弔《つ》って、帽を被《かぶ》って玄関に出た。玄関には島村が磨いて置いた長靴がある。それを庭に卸して穿《は》く。がたがたいう音を聞き附けて婆あさんが出て来た。
「お外套《がいとう》は。」
「すぐ帰るからいらん。」
石田は鍛冶町を西へ真直に鳥町まで出た。そこに此間《こないだ》名刺を置いて歩いたとき見て置いた鳥屋がある。そこで牝鶏《めんどり》を一羽買って、伏
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