甲斐のない男であった。さてこれからどうしよう。なんだっておれはロシアを出て来たのだろう。今さら後悔しても駄目である。幸にも国にはまだ憲法が無い。その代りには、どこへ行って見ても、穴くらい幾らでもある。溝も幾らもある。よしや襟飾を棄てる所は無いにしても、襟くらい棄てる所は幾らもある。
 日が暮れた。熱が出て、悪寒《おかん》がする。幻覚が起る。向うから来る女が口を開く。おれは好色家の感じのような感じで、あの口の中へおれの包みを入れてみたいと思った。巡査が立っている。あの兜を脱がせて、その中へおれの包みを入れたらよかろうと思う。紐をからんでいる手の指が燃えるような心持がする。包みの重りが幾キログランムかありそうな心持がする。ああ。恋しきロシアよ。あそこには潜水夫はいない。町にも掃除人はいない。秘密警察署はあっても、外の用をしている。極右党も外国の侯爵に紙包みを返してやろうなんぞとは思わない。いわんやおれは侯爵でもなんでもないのである。ああ。ロシアよ。
 おれは余りに愛国の情が激発して頭がぐらついたので、そこの塀に寄り掛かって自ら支えた。
「これは、あなた、どうなさいましたのですか。御気分でもお悪いのですか。やあ、ロシアの侯爵閣下ではございませんか。」
 おれは身を旋《めぐ》らしてその男を見た。おれの前に立っているのは、肥満した、赤い顔の独逸《ドイツ》人である。こないだ電車から飛び下りておれのわざと忘れて置いた包みを持って来てくれて、自分の名刺をくれた男である。
 おれはそいつのふくらんだ腹を見て、ポッケットに入れていたナイフを出してそのナイフに付いていた十二本の刃を十二本ともそいつの腹へずぶりと刺した。腹の持主はぐっとも言わない。日本人のやる腹切りのようなわけだ。そしてぐいと引き廻して、腹の中へ包みを入れた。包みの中には例の襟が這入っているのである。三十九号の立襟である。一ダズン七ルウブルの中の二つである。それから腹の創口をピンで留めて、ハンケチで手を拭いて、その場を立ち退いた。誰もおれを見たものはない。おれは口笛を吹いて歩き出した。
 その晩はよく寝た。子供のように愉快な夢を見て寝た。翌朝目を覚まして、鼻歌を歌いながら、起きて、鼻歌を歌いながら、顔を洗って、朝食を食った。なんだか年を逆さに取ったような心持がしている。おれは「巴里《パリイ》へ行く汽車は何時に出るか」と問うてみた。
 停車場へ出掛けた。首尾よく不喫烟室に乗り込むまではよかったが、おれはそこで捕縛せられた。
 おれは五時間の予審を受けた。何もかも白状した。しかし裁判官達には、おれがなぜそんな事をしたか分からない。
「襟だって価のある物品ではありませんか」と、裁判官も検事も云うのである。
「あいつはわたくしを滅亡させたのです。わたくしの生涯を破壊したのです。あいつが最初電車から飛び下りて、わたくしを追いかけて、あの包みを渡しさえしなかったら。」
「しかし誰でもあの男の場合に出合ったら、あの男と同じ行為に出でたでしょう。どうも外に為様《しよう》はないじゃありませんか。一体被告の申立ては法廷を嘲弄しているものと認めます」と、裁判官達は云った。
 おれは死刑を宣告せられた。それから法廷を侮辱した科《とが》によって、同時に罰金二十マルクに処せられた。
「被告の所有者たる襟は没収する限りでないから、一応被告に下げ渡します」と、裁判長が云った。「あの差押えた品を渡せ」と云うや否や、押丁《おうてい》はおれに例の紙包みを持って来て渡した。
 その時おれは気を失った。それから醒覚したのは、監獄の部屋の中であった。夜である。おれの傍には卓があって、その上に襟の包みが載っている。
 明日はおれは処刑を受ける。おれはヨオロッパのために死ぬる。ヨオロッパの平和のために死ぬる。国家の行政のために死ぬる。文化のために死ぬる。
 襟は遺言をもって検事に贈る。どうとも勝手にするがいい。
 故郷を離れて死ぬるのはせつない。涙が翻《こぼ》れて、もうあとは書けない。さらばよ。我がロシア。

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附言。本文中二箇所の字句を改刪《かいさん》してある。これは諷刺の意を誤解せられては差支えるので、故意に原文に従わなかったのである。誤訳ではない。
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底本:「諸国物語(上)」ちくま文庫、筑摩書房
   1991(平成3)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鴎外全集」岩波書店
   1971(昭和46)年11月〜1975(昭和50)年6月
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2007年12月27日作成
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