襟
オシップ・ディモフ Ossip Dymoff
森鴎外訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)拵《こしら》えた
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)両棲動物|奴《め》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)行ったが[#「行ったが」は底本では「行っが」]
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襟二つであった。高い立襟で、頸の太さの番号は三十九号であった。七ルウブル出して買った一ダズンの残りであった。それがたったこの二つだけ残っていて、そのお蔭でおれは明日死ななくてはならない。
あの襟の事を悪くは言いたくない。上等のオランダ麻で拵《こしら》えた、いい襟であった。オランダと云うだけは確かには分からないが、番頭は確かにそう云った。ベルリンへ来てからは、廉《やす》いので一度に二ダズン買った。あの日の事はまだよく覚えている。朝応用美術品陳列館へ行った。それから水族館へ行って両棲動物を見た。ラインゴルドで午食をして、ヨスチイで珈琲《コオフィイ》を飲んで、なんにするという思案もなく、赤い薔薇《ばら》のブケエを買って、その外にも鹿の角を二組、コブレンツの名所絵のある画葉書を百枚買った。そのあとでエルトハイムに寄って新しい襟を買ったのであった。
晩には方々歩いたっけ。珈琲店はウィクトリアとバウエルとへ行った。それから黒猫《シャアノアル》やリンデンや抜裏《パッサアジュ》なんぞの寄席にちょいちょい這入《はい》って覗いて見た。その外どこかへ行ったが[#「行ったが」は底本では「行っが」]、あとは忘れた。あの時は新しく買った分の襟を一つしていた。リッシュに這入ったとき、大きな帽子を被《かぶ》った別品さんが、おれの事を「あなたロシアの侯爵でしょう」と云って、「あなたにお目に掛かった記念にしますから、二十マルクを一つ下さいな」と云ったっけ。
ホテルに帰ったのは、午前六時であった。自動車のテクサメエトルを見たら五の所に針が行っていた。それをどう云うものだか、ショッフヨオルの先生が十二の所へそっと廻した。なんだか面倒になりそうだから、おれは十五に相当する金をやった。部屋に這入って見ると、机の上に鹿の角や花束が載っていて、その傍に脱《はず》して置いて出た古襟があった。窓を開けて、襟を外へ投げた。それから着物を脱いで横になった。しかし今一つ例の七ルウブルの一ダズンの中の古襟のあったことを思い出したから、すぐに起きて、それを捜し出して、これも窓から外へ投げた。大きな帽子を被った両棲動物|奴《め》がうるさく附き纏って、おれの膝に腰を掛けて、「テクサメエトルを下さいな」なんと云う。そのうち寐入《ねい》った。翌朝と云いたいが、実際もう朝ではなかった。おれは起きて出掛けた。今日は議会を見に行くはずである。もうすぐにパリイへ立つ予定なのだから、なるたけ急いでベルリンの見物をしてしまわなくてはならないのである。ホテルを出ようとすると、金モオルの附いた帽子を被っている門番が、帽を脱いで、おれにうやうやしく小さい包みを渡した。
「なんだい」とおれは問うた。
「昨日侯爵のお落しになった襟でございます。」こいつまでおれの事を侯爵だと云っている。
おれはいい加減に口をもぐつかせて謝した。
「町の掃除人が持って参ったのでございます。その男の妻が拾ったそうでございます。四十ペンニヒ頂戴いたしたいと申しておりました。」
「そんなら出しておいてくれい。あとで一しょに勘定して貰うから。」
襟は丁寧に包んで、紐でしっかり縛ってある。おれはそれを提げて、来合せた電車に乗って、二分間ほどすると下りた。
「旦那。お忘れ物が。」車掌があとからこう云った。
おれは聞えない振りをして、ずんずん歩いた。そうすると大騒ぎになった。電車に乗っていた連中が総立ちになる。二人はおれを追い掛けに飛んで下りる。一人は車掌に談判する。今二人は運転手に談判する。車の屋根に乗っている連中は、蝙蝠傘《こうもりがさ》や帽やハンケチを振っておれを呼ぶ。反対の方角から来た電車も留まって、その中でも大騒ぎが始まる。ひどく肥満した土地の先生らしいのが、逆上して真赤になって、おれに追い附いた。手には例の包みを提げている。おれは丁寧に礼を言った。肥満した先生は名刺をくれておれと握手した。おれも名刺を献上した。見物一同大満足の体で、おれの顔を見てにこにこしている。両方の電車が動き出す。これで交通の障碍《しょうがい》がやっと除かれたのである。おれはこの出来事のために余程興奮して来たので、議会に行くことはよしにした。ぶらぶら散歩して、三十分もたってから、ちょうど歩いていたスプレエ川の岸から、例の包を川へ投げた。あたりを見廻しても人っ子一人いない。
晩までは安心して所々《しょしょ》をぶらついていた。のん気で午食も旨く食った。襟を棄ててから、もう四時間たっている。まさか襟がさきへ帰ってはいまいとは思いながら、少しびくびくものでホテルへ帰った。さも忙しいという風をしてホテルの門を通り掛かった。門番が引き留めた。そしてうやうやしく一つの包みを渡すのである。同じ紙で包んで、同じ紐で縛ってある。おれははっと思うと、がっかりしてその椅子に倒れ掛かった。ボオイが水を一ぱい持って来てくれた。
門番がこう云った。「いや、大した手数でございましたそうです。しかしまあ、万事無事に済みまして結構でございました。すぐに見付かればよろしいのでございますが、もうお落しになってから約八分たっていたそうで、すっかり水を含みまして、沈みかかっていたそうでございます。水上警察がそれを見付けて、すぐに非常号音を鳴らします。すぐに電話で潜水夫を呼び寄せます。無論同時に秘密警察署へも報告をいたしまして、私立探偵事務所二箇所へ知らせましたそうで。」
「なるほど。シエロック・ホルムス先生に知らせたのだね。」
門番はおれの顔を見た。その見かたは慇懃《いんぎん》ではあるが、変に思っているという見かたであった。そしてボオイに合図をすると、ボオイがもう一杯水を持って来てくれた。
門番は話のあとをする。「潜水夫は一時間と三十分掛かって、包みを見付けたそうでございます。その間に秘密警察署の手で、今朝から誰があの川筋を通ったということを探りました。ベルリン中のホテルへ電話で問い合されました。ロシア人で宿泊しているものはないかと申すことで。」
「なぜロシア人というのだろう」と、おれは切れぎれに云った。
「襟に商標が押してございまして、それがロシアの商店ので。」
おれは椅子から立ち上がった。
「もういいもういい。そこで幾ら立て替えておいてくれたのかい。」
「六百マルクでございます。秘密警察署の方は官吏でございますから、報酬は取りませんが、私立探偵事務所の方がございますので。どうぞ悪しからず。それから潜水夫がお心付けを戴きたいと申しました。」
おれはすっかり気色を悪くして、もう今晩は駄目だと思った。もうなんにもすまいと思って、ただ町をぶらついていた。手には例の癪《しゃく》に障る包みを提げている。二三度そっと落してみた。すぐに誰かが拾って、にこにこした顔をしておれに渡してくれる。おれは方々見廻した。どこかに穴か、溝か、畠か、明家《あきや》がありはしないかと思ったのである。そんな物は生憎ない。どこを見ても綺麗に掃除がしてある。片付けてある。家がきちんと並べて立ててある。およそ十二キロメエトルほど歩いて、自動車を雇ってホテルへ帰った。襟の包みは丁寧に自動車の腰掛の下へしまっておいて下りた。おれだって、あしたはきっと戻って来るとは知っている。ホテルへ乗って帰る車の中に物を置けば、それが翌日は帰って来るということが分からないのではない。とにかく今夜一晩だけでもあの包みなしに安眠したいと思ったのである。明朝になったなら、またどうにかしようというのであった。しかしそれは画餅《がへい》になった。おれはとうとう包みと一しょに寝た。十二キロメエトル歩いたあとだからおれは随分くたびれていて、すぐ寝入った。そうすると間もなく戸を叩くものがある。戸口から手が覗く。袖の金線でボオイだということが分かる。その手は包みを提げているのである。おれは大熱になった。おれの頭から鹿の角が生える。誰やらあとから追い掛ける。大きな帽子を被った潜水夫がおれの膝に腰を掛ける。
もうパリイへ行こうと思うことなんぞはおれの頭に無い。差し当りこの包みをどうにか処分しなくてはならない。どうか大地震でもあってくれればいいと思う。何もベルリンだって、地震が揺ってならないはずはない。それからこういう事も思った。動物園へ行って、河馬の咽へあの包みを入れてやろうかと云うのである。しかし奴が吐き出すかも知れないと思って、途中で動物園に行くことを廃《や》めにして料理店へ這入ってしまった。幸におれは一工夫して、これならばと一縷《いちる》の希望を繋いだ。夜、ホテルでそっと襟を出して、例の商標を剥がした。戸を締め切って窓掛を卸《おろ》して、まるで贋金を作るという風でこの為事《しごと》をしたのである。
翌朝国会議事堂へ行った。そこの様子は少しおれを失望させた。卓と腰掛とが半圏状に据え付けてある。あまり国のと違っていない、議長席がある。鐸《ベル》がある。水を入れた瓶がある。そこらも国のと違っていない。おれは右党の席を一しょう懸命注意して見た。
そしてこう決心した。「どうもこいつの方が信用が置けそうだ。この卓や腰掛が似ているように、ここに来て据わる先生達が似ているなら、おれは襟に再会することは断じて無かろう。」
こう思って、あたりを見廻わして、時分を見計らって、手早く例の包みを極右党の卓の中にしまった。
そこでおれは安心した。しかし念には念を入れるがいいと思って、ホテルを換えた。勘定は大分|嵩張《かさば》っていた。なぜと云うに、宿料、朝食代、給仕の賃銀なんぞの外に、いろいろな筆数が附いている。町の掃除人の妻にやった心附け、潜水夫にやった酒手、私立探偵事務所の費用なんぞである。
引き越したホテルはベルリン市のまるであべこべの方角にある。宿帳へは偽名をして附けた。なんでもホテルではおれを探偵だと思ったらしい。出入をするたびに、ホテルの外に立っている巡査が敬礼をする。
翌日は休日である。議会は休みのはずである。その翌日から予算が日程に上ぼっていて、大分盛んな議論があるらしい。その晩は無事に済んだ。その次の日の午前も無事に済んだ。ところが午後になると、議会から使が来て、大きなブックを出して、それに受取を書き込ませた。
門番があっけに取られたような風をして、両手の指を組み合せて、こう云った。「どうでも大臣か何かにおなりになるのではございますまいか。わたくしは議事堂に心安いものを持っています。食堂の給仕をいたしております。もしこれから何か御用がおありなさるなら、その男をお使い下さるようにお願い申します。確かな男でございます。」
おれの考えは少々違っていた。果せるかな、使は包みを一つ取り出して、それをおれに渡すのである。
門番はこう云った。「勲章でございましょう。銀の勲章でございましょう。これから二つ目の横町を右へお曲がりになる所の角へお持ちになりますと。」
「なんだい、それは。その角に持って行ってどうするのだい。」
「質店でございます。勲章なら、すぐに十マルクは御用立てます。官立典物所なんぞへお持ちになったって、あそこではせいぜい六マルクしかよこしません。なかなかずるうございますから。」
ところがおれの受け取ったのは、勲章でもなければ、大臣の辞令でもない。例の襟である。極右党の先生が御丁寧にも札を附けてくれた。こんな事が書いてある。「露国の名誉ある貴族たる閣下に、御遺失なされ候物品を返上致す機会を得《え》候《そうろう》は、拙者の最も光栄とする所に有之《これあり》候《そうろう》。猶《なお》将来共《しょうらいとも》。」あとは読んでも見なかった。
おれはホテルを出て、沈鬱して歩いていた。頼みに思った極右党はやはり頼み
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