万治元|戊戌年《つちのえいぬのとし》十二月二日
[#地から2字上げ]興津弥五右衛門|華押《かおう》
     皆々様

 この擬書《ぎしょ》は翁草《おきなぐさ》に拠って作ったのであるが、その外《ほか》は手近にある徳川実記(紀)と野史《やし》とを参考したに過ぎない。皆|活板本《かっぱんほん》で実記(紀)は続国史大系本である。翁草に興津が殉死《じゅんし》したのは三斎の三回|忌《き》だとしてある。しかし同時にそれを万治《まんじ》寛文《かんぶん》の頃としてあるのを見れば、これは何かの誤でなくてはならない。三斎の歿年《ぼつねん》から推《お》せば、三回忌は慶安元年になるからである。そこで改めて万治元年十三回忌とした。興津が長崎に往《い》ったのは、いつだか分からない。しかし初音《はつね》の香《こう》を二条行幸の時、後水尾《ごみずお》天皇に上《たてまつ》ったと云ってあるから、その行幸のあった寛永三年より前でなくてはならない。しかるに興津は香木《こうぼく》を隈本《くまもと》へ持って帰ったと云ってある。細川忠利が隈本城主になったのは寛永九年だから、これも年代が相違している。そこで丁度《ちょうど》二
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