は未だ十一歳におわしながら、越中守に御成り遊ばされ、御|名告《なのり》も綱利《つなとし》と賜わり、上様の御覚《おんおぼえ》目出たき由消息有之、かげながら雀躍《じゃくやく》候事に候。
 最早某が心に懸かり候事|毫末《ごうまつ》も無之、ただただ老病にて相果て候が残念に有之、今年今月今日殊に御恩顧を蒙《こうむ》り候松向寺殿の十三回忌を待得《まちえ》候《そろ》て、遅ればせに御跡を奉慕《したいたてまつり》候。殉死は国家の御|制禁《せいきん》なる事、篤《とく》と承知候えども壮年の頃相役を討ちし某が死遅れ候|迄《まで》なれば、御|咎《とがめ》も無之かと存じ候。
 某|平生《へいぜい》朋友等無之候えども、大徳寺|清宕和尚《せいとうおしょう》は年来|入懇《じっこん》に致しおり候えば、この遺書|国許《くにもと》へ御遣《おんつか》わし下され候《そろ》前に、御見せ下されたく、近郷《きんごう》の方々《かたがた》へ頼入り候。
 この遺書蝋燭の下にて認《したた》めおり候ところ、只今燃尽き候。最早|新《あらた》に燭火を点《ともし》候にも及ばず、窓の雪明りにて、皺腹《しわばら》掻切《かっきり》候ほどの事は出来申すべく候。
  万治元|戊戌年《つちのえいぬのとし》十二月二日
[#地から2字上げ]興津弥五右衛門|華押《かおう》
     皆々様

 この擬書《ぎしょ》は翁草《おきなぐさ》に拠って作ったのであるが、その外《ほか》は手近にある徳川実記(紀)と野史《やし》とを参考したに過ぎない。皆|活板本《かっぱんほん》で実記(紀)は続国史大系本である。翁草に興津が殉死《じゅんし》したのは三斎の三回|忌《き》だとしてある。しかし同時にそれを万治《まんじ》寛文《かんぶん》の頃としてあるのを見れば、これは何かの誤でなくてはならない。三斎の歿年《ぼつねん》から推《お》せば、三回忌は慶安元年になるからである。そこで改めて万治元年十三回忌とした。興津が長崎に往《い》ったのは、いつだか分からない。しかし初音《はつね》の香《こう》を二条行幸の時、後水尾《ごみずお》天皇に上《たてまつ》ったと云ってあるから、その行幸のあった寛永三年より前でなくてはならない。しかるに興津は香木《こうぼく》を隈本《くまもと》へ持って帰ったと云ってある。細川忠利が隈本城主になったのは寛永九年だから、これも年代が相違している。そこで丁度《ちょうど》二
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