》は一本腕の癪《しゃく》に障った。「なに。ぬすっとだ。口で言うのは造做《ぞうさ》はないや。だが何を盗むのだ。誰の物を盗むのだ。盗むにはいろいろ道具もいるし、それに折も見計わなくちゃならない。修行しなくちゃ出来ない商売だ。そればかりじゃないや。第一おれには不気味で出来ねえ。実は小さい時おれに盗みを教え込もうとした奴があったのだ。だが、どうも不気味だよ。そうは云うものの、おめえ何か旨い為事《しごと》があるのなら、おれだって一口乗らねえにも限らねえ。やさしい為事だなあ。ちょいとしゃがめば、ちょいと手に攫《つか》めると云う為事で、あぶなげのないのでなくちゃ厭だ。そう云う旨い為事があるのかい。福の神の髻《たぶさ》を攫んで放さないと云う為事だ。どうかすると、おめえそんなのを一週間に一度ずつこっそりやるのかも知れねえが。」一本腕はこう云って、顔をくしゃくしゃにして笑った。
爺いさんは真面目に相手の顔を見返して、腰を屈めて近寄った。そして囁《ささや》いた。「おれは盗んだのだ。何百万と云う貨物《しろもの》を盗んだ。おれはミリオネエルだ。そのくせかつえ死ななくてはならないのだ。」
一本腕は目を大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。そして大声を出して笑った。「ミリオネエルだ。あの、おめえがか。して見ると、珍らしいミリオネエルの変物だなあ。まあ、いいから来て寝ろ。おれの場所を半分分けてやる。ぴったり食っ附いて寝ると、お互に暖かでいい。ミリオネエルはよく出来たな。」
爺いさんは一本腕の臂《ひじ》を攫んだ。「まあ、黙って聞け。おれがおぬしに見せてやる。おれの宝物を見せるのだ。世界に類の無い宝物だ。」
一本腕は爺いさんの手を振り放して一歩退いた。「途方もねえ。気違じゃねえかしら。」
爺いさんはそれには構わずに、靴をぬぎはじめた。右の足には黄革の半靴を穿《は》いている。左の足には磨り切れた、控鈕《ボタン》留の漆塗の長靴を穿いている。その左の方を脱いで、冷たいのも感ぜぬらしく、素足を石畳の上に載せた。それから靴の中底を引き出した。それから靴の踵《かかと》に填《う》めてある、きたない綿を引き出した。綿には何やらくるんである。それを左の手に持って、爺いさんは靴を穿いた。そして身を起した。
「見ろよ」と云いながら、爺いさんは棒立ちに立って、右の手を外套の隠しに入れて、左の手を高くさし伸べた。
一本腕はあっけに取られて見ている。
爺いさんは左の手を開いた。指の間に小さい物を挟んでいる。不思議にも、その小さい物が、この闇夜に漏れて来る一切の光明を、ことごとく吸収して、またことごとく反射するようである。
爺いさんは云った。「なんだか知っているかい。これは青|金剛石《ダイアモンド》と云う物だ。世界に二つと無い物で、もう盗まれてから大ぶの年が立つ。それを盗んだのはおれだ。世界中捜しても知れない。おれが持っている。おれが盗んだのだ。なんでもふいと盗んだのだ。その時の事はもう精《くわ》しくは知っていない。忘れてしまった。とにかくその青金剛石はおれが持っている。世界に二つとない正真正銘の青金剛石だ。世界中捜しても見附からないはずだ。乞食の靴の中に這入っている。誰にだって分からなかろう。誰にだってなあ。ははは。何百万と云う貨物《しろもの》が靴の中にあるのだ。」
一本腕は無意識に手をさし伸べて、爺いさんの左の手に飛び附こうとした。
「手を引っ込めろ。」爺いさんはこう云って、一歩退いた。そして左の手を背後《うしろ》へ引いて、右の手を隠しから出した。きらきらと光る小刀を持っていたのである。裸刃《はだかみ》で。「手を引っ込めぬと、命が無いぞ。そこで今云ったとおり、おれが盗んでいるのだ。おぬし手なんぞを出して、どうしようと云うのだ。馬鹿|奴《め》。取って売るつもりか。売るにしても誰に売る。この宝は持っていて、かつえて死ぬより外《ほか》無いのだ。」
「馬鹿げているじゃないか。小さく切らせればいい。そんな為事を知ったものがあるのだ。おれならそう云う奴をどうにかして捜し出す。もしおめえの云うような値打の物なら、二人で生涯どんな楽な暮らしでも出来るのだ。どれ、もう一遍おれに見せねえ。」
爺いさんは目を光らせた。「なに、おれの宝石を切るのだと。そんな事が出来るものか。それは誰にも出来ぬ。第一おれが不承知だ。こんな美しい物を。これはおれの物だ。誰にも指もささせぬ。おれが大事にしている。側に寄るな。寄るとあぶないぞ。」手には小刀が光っている。
爺いさんはまた二三歩退いた。そして手早く宝石を靴の中に入れて、靴を穿いた。それから一言も言わずに、その場を立ち去った。
一本腕は追い掛けて組み止めようとした。しかしふと気を換えて罷《や》めた。そして爺いさんの後姿を見送っ
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