橋の下
フレデリック・ブウテ Frederic Boutet
森鴎外訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)涜《けが》された

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)青|金剛石《ダイアモンド》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った
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 一本腕は橋の下に来て、まず体に一面に食っ附いた雪を振り落した。川の岸が、涜《けが》されたことのない処女の純潔に譬《たと》えてもいいように、真っ白くなっているので、橋の穹窿《きゅうりゅう》の下は一層暗く見えた。しかしほどなく目が闇に馴れた。数日前から夜ごとに来て寝る穴が、幸にまだ誰《たれ》にも手を附けられずにいると云うことが、ただ一目見て分かった。古い車台を天井にして、大きい導管二つを左右の壁にした穴である。
 雪を振り落してから、一本腕はぼろぼろになった上着と、だぶだぶして体に合わない胴着との控鈕《ボタン》をはずした。その下には襦袢《じゅばん》の代りに、よごれたトリコオのジャケツを着込んでいる。控鈕をはずしてから、一本腕は今一本の腕を露した。この男は自分の目的を遂げるために必要な時だけ、一本腕になっているのである。さて露した腕を、それまでぶらりと垂れていた片袖に通して、一方の導管に腰を掛けた。そして隠しからパンを一切と、腸詰を一塊と、古い薬瓶に入れた葡萄酒とを取出して、晩食をしはじめた。
 この時自分のいる所から余り遠くない所に、鈍い、鼾《いびき》のような声がし出したので、一本腕は頭をその方角に振り向けた。
「おや。なんだ。爺《じ》いさん。そいつあいけねえぜ。」一本腕が、口に一ぱい物を頬張りながら云った。
 一言の返事もせずに、地びたから身を起したのは、痩せ衰えた爺いさんである。白い鬚《ひげ》がよごれている。頭巾の附いた、鼠色の外套の長いのをはおっているが、それが穴だらけになっている。爺いさんはパンと腸詰とを、物欲しげにじっと見ている。
 一本腕は何一つ分けてやろうともせずに、口の中の物をゆっくり丁寧に噬《か》んでいる。
 爺いさんは穹窿の下を、二三歩出口まで歩いて行って、じっと外を見ている。雪は絶間なく渦を巻いて地の上と水の上とに落
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