籠居《ろうきょ》して多く詩を作り、それを温に送って政を乞うた。温はこの詩を受けて読む毎に、語中に閨人《けいじん》の柔情《じゅうじょう》が漸く多く、道家の逸思がほとんど無いのを見て、訝《いぶか》しげに首を傾けた。玄機が李の妾《しょう》になって、幾《いくばく》もなく李と別れ、咸宜観に入って女道士になった顛末《てんまつ》は、悉《ことごと》く李の口から温の耳に入っていたのである。

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 七年程の月日が無事に立った。その時夢にも想わぬ災害が玄機の身の上に起って来た。
 咸通八年の暮に、陳が旅行をした。玄機は跡に残って寂しく時を送った。その頃《ころ》温に寄せた詩の中に、「満庭木葉愁風起《まんていのこのはしうふうおこり》、透幌紗窓惜月沈《くわうしやのまどをとほしつきのしづむををしむ》」と云う、例に無い悽惨《せいさん》な句がある。
 九年の初春に、まだ陳が帰らぬうちに、老婢が死んだ。親戚《しんせき》の恃《たの》むべきものもない媼は、兼《かね》て棺材まで準備していたので、玄機は送葬の事を計らって遣った。その跡へ緑翹《りょくぎょう》と云う十八歳の婢が来た。顔は美しくはないが、聡慧《そうけい》で媚態《びたい》があった。
 陳が長安に帰って咸宜観に来たのは、艶陽三月の天であった。玄機がこれを迎える情は、渇した人が泉に臨むようであった。暫らくは陳がほとんど虚日のないように来た。その間に玄機は、度々陳が緑翹を揶揄《やゆ》するのを見た。しかし玄機は初め意に介せなかった。なぜと云うに、玄機の目中には女子としての緑翹はないと云って好《よ》い位であったからである。
 玄機は今年二十六歳になっている。眉目《びもく》端正な顔が、迫り視《み》るべからざる程の気高い美しさを具えて、新《あらた》に浴を出た時には、琥珀色《こはくいろ》の光を放っている。豊かな肌は瑕《きず》のない玉のようである。緑翹は額の低い、頤《おとがい》の短い※[#「けものへん+渦のつくり」、第3水準1−87−77]子《かし》に似た顔で、手足は粗大である。領《えり》や肘はいつも垢膩《こうじ》に汚《けが》れている。玄機に緑翹を忌む心のなかったのは無理もない。
 そのうち三人の関係が少しく紛糾して来た。これまでは玄機の挙措が意に満たぬ時、陳は寡言になったり、または全く口を噤《つぐ》んでいたりしたのに、今は陳がそう云う時、多く緑翹と語った。その上そう云う時の陳の詞《ことば》は極《きわめ》て温和である。玄機はそれを聞く度に胸を刺されるように感じた。
 ある日玄機は女道士仲間に招かれて、某の楼観に往った。書斎を出る時、緑翹にその観の名を教えて置いたのである。さて夕方になって帰ると、緑翹が門《かど》に出迎えて云った。「お留守に陳さんがお出《いで》なさいました。お出になった先を申しましたら、そうかと云ってお帰なさいました」と云った。
 玄機は色を変じた。これまで留守の間に陳の来たことは度々あるが、いつも陳は書斎に入って待っていた。それに今日は程近い所にいるのを知っていて、待たずに帰ったと云う。玄機は陳と緑翹との間に何等かの秘密があるらしく感じたのである。
 玄機は黙って書斎に入って、暫く坐《ざ》して沈思していた。猜疑《さいぎ》は次第に深くなり、忿恨《ふんこん》は次第に盛んになった。門に迎えた緑翹の顔に、常に無い侮蔑《ぶべつ》の色が見えたようにも思われて来る。温言を以て緑翹を賺《すか》す陳の声が歴々として耳に響くようにも思われて来る。
 そこへ緑翹が燈《ともしび》に火を点じて持って来た。何気なく見える女の顔を、玄機は甚だしく陰険なように看取した。玄機は突然起って扉に鎖《じょう》を下した。そして震《ふる》う声で詰問しはじめた。女はただ「存じません、存じません」と云った。玄機にはそれが甚しく狡獪《こうかい》なように感ぜられた。玄機は床の上に跪《ひざまず》いている女を押し倒した。女は懾《おそ》れて目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》っている。「なぜ白状しないか」と叫んで玄機は女の吭《のど》を扼《やく》した。女はただ手足をもがいている。玄機が手を放して見ると、女は死んでいた。

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 玄機の緑翹を殺したことは、やや久しく発覚せずにいた。殺した翌日陳の来た時には、玄機は陳が緑翹の事を問うだろうと予期していた。しかし陳は問わなかった。玄機がとうとう「あの緑翹がゆうべからいなくなりましたが」と云って陳の顔色を覗《うかが》うと、陳は「そうかい」と云っただけで、別に意に介せぬらしく見えた。玄機は前夜のうちに観の背後《うしろ》に土を取った穴のある処へ、緑翹の屍《かばね》を抱いて往って、穴の中へ推し墜《おと》して、上から土を掛けて置いたのである。
 玄機は「生ける秘密」のために、数年前から客を謝していた。然るに今は「死せる秘密」のために懼《おそれ》を懐《いだ》いて、もし客を謝したら、緑翹の踪跡《そうせき》を尋ねるものが、観内に目を著《つ》けはすまいかと思った。そこで切《せつ》に会見を求めるものがあると、強いて拒まぬことにした。
 初夏の頃に、ある日二三人の客があった。その中の一人が涼を求めて観の背後に出ると、土を取った跡らしい穴の底に新しい土が填《う》まっていて、その上に緑色に光る蠅《はえ》が群がり集まっていた。その人はただなんとなく訝《いぶか》しく思って、深い思慮をも費さずに、これを自己の従者に語った。従者はまたこれを兄に語った。兄は府の衙卒《がそつ》を勤めているものである。この卒は数年前に、陳が払暁に咸宜観から出るのを認めたことがある。そこで奇貨|措《お》くべしとなして、玄機を脅《おびやか》して金を獲《え》ようとしたが、玄機は笑って顧みなかった。卒はそれから玄機を怨んでいた。今弟の語《ことば》を聞いて、小婢《しょうひ》の失踪したのと、土穴に腥羶《せいせん》の気があるのとの間に、何等かの関係があるように思った。そして同班の卒数人と共に、※[#「金+插のつくり」、第3水準1−93−28]《すき》を持って咸宜観に突入して、穴の底を掘った。緑翹の屍は一尺に足らぬ土の下に埋まっていたのである。
 京兆《けいちょう》の尹《いん》温璋《おんしょう》は衙卒の訴に本《もと》づいて魚玄機を逮捕させた。玄機は毫《ごう》も弁疏《べんそ》することなくして罪に服した。楽人陳某は鞠問《きくもん》を受けたが、情を知らざるものとして釈《ゆる》された。
 李億を始《はじめ》として、かつて玄機を識っていた朝野の人士は、皆その才を惜んで救おうとした。ただ温岐一人は方城の吏になって、遠く京師《けいし》を離れていたので、玄機がために力を致すことが出来なかった。
 京兆の尹は、事が余りにあらわになったので、法を枉《ま》げることが出来なくなった。立秋の頃に至って、遂《つい》に懿宗《いそう》に上奏して、玄機を斬《ざん》に処した。

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 玄機の刑せられたのを哀むものは多かったが、最も深く心を傷めたものは、方城にいる温岐であった。
 玄機が刑せられる二年前に、温は流離して揚州《ようしゅう》に往っていた。揚州は大中十三年に宰相を罷《や》めた令狐綯が刺史《しし》になっている地である。温は綯が自己を知っていながら用いなかったのを怨んで名刺をも出さずにいるうちに、ある夜|妓院《ぎいん》に酔って虞候《ぐこう》に撃たれ、面《おもて》に創《きず》を負い前歯を折られたので、怒ってこれを訴えた。綯が温と虞候とを対決させると、虞候は盛んに温の※[#「さんずい+于」、第3水準1−86−49]行《おこう》を陳述して、自己は無罪と判決せられた。事は京師に聞えた。温は自ら長安に入って、要路に上書して分疏《ぶんそ》した。この時徐商と楊収《ようしゅう》とが宰相に列していて、徐は温を庇護したが楊が聴かずに、温を方城に遣って吏務に服せしめたのである。その制辞《せいじ》は「孔門以徳行為先《こうもんはとくかうをもつてさきとなし》、文章為末《ぶんしやうをすゑとなす》、爾既徳行無取《なんぢすでにとくかうのとるなし》、文章何以称焉《ぶんしやうなんぞもつてしようせられんや》、徒負不羈之才《いたづらにふきのさいをおふ》、罕有適時之用《てきじのようあることまれなり》」と云うのであった。温は後に隋県《ずいけん》に遷《うつ》されて死んだ。子の憲も弟の庭皓《ていこう》も、咸通中に官に擢《ぬきん》でられたが、庭皓は※[#「广+龍」、第3水準1−94−86]※[#「員+力」、第3水準1−14−71]《ほうくん》の乱に、徐州で殺された。玄機が斬られてから三月の後の事である。
[#改ページ]

    参照

     其一 魚玄機
三水小牘       南部新書
太平広記       北夢瑣言《ほくむさげん》
続談助        唐才子伝
唐詩紀事       全唐詩(姓名下小伝)
全唐詩話       唐女郎魚玄機詩
     其二 温飛卿
旧唐書        漁隠叢話《ぎょいんそうわ》
新唐書        北夢瑣言
全唐詩話       桐薪《どうしん》
唐詩紀事       玉泉子
六一詩話       南部新書
滄浪《そうろう》詩話       握蘭集《あくらんしゆう》
彦周《げんしゆう》詩話       金筌集《きんせんしゆう》
三山老人語録     漢南真稿
雪浪斎《せつろうさい》日記      温飛卿詩集
[#地付き](大正四年四月)



底本:「森鴎外全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年10月24日第1刷発行
入力:清角克由
校正:ちはる
2001年3月6日公開
2006年4月27日修正
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