ゅう》があって、どこでも日を定めて厳かな祭が行われるのであった。長安には太清宮の下《しも》に許多《いくた》の楼観がある。道教に観があるのは、仏教に寺があるのと同じ事で、寺には僧侶《そうりょ》が居《お》り、観には道士が居る。その観の一つを咸宜観《かんぎかん》と云って女道士《じょどうし》魚玄機はそこに住んでいたのである。
玄機は久しく美人を以て聞えていた。趙痩《ちょうそう》と云わむよりは、むしろ楊肥《ようひ》と云うべき女である。それが女道士になっているから、脂粉の顔色を※[#「さんずい+宛」、第4水準2−78−67]《けが》すを嫌っていたかと云うと、そうではない。平生|粧《よそおい》を凝《こら》し容《かたち》を冶《かざ》っていたのである。獄に下った時は懿宗《いそう》の咸通《かんつう》九年で、玄機は恰《あたか》も二十六歳になっていた。
玄機が長安人士の間に知られていたのは、独り美人として知られていたのみではない。この女は詩を善《よ》くした。詩が唐の代に最も隆盛であったことは言を待たない。隴西《ろうせい》の李白《りはく》、襄陽《じょうよう》の杜甫《とほ》が出て、天下の能事を尽した後に太原《
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