準1−88−76]目《うさいかんもく》の温が、二人の白面郎に侮られるのを見て、嘲謔《ちょうぎゃく》の目標にしていた妓等は、この時温の傍《そば》に一人寄り二人寄って、とうとう温を囲んで傾聴した。この時から妓等は温と親しくなった。温は妓の琴を借りて弾いたり、笛を借りて吹いたりする。吹弾《すいたん》の技も妓等の及ぶ所ではない。
妓等が魚家に帰って、頻《しきり》に温の噂《うわさ》をするので、玄機がそれを聞いて師匠にしている措大に話すと、その男が驚いて云った。「温鍾馗と云うのは、恐らくは太原の温岐《おんき》の事だろう。またの名は庭※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−89−63]《ていいん》、字《あざな》は飛卿《ひけい》である。挙場にあって八たび手を叉《こまぬ》けば八韻の詩が成るので、温八叉《おんはっしゃ》と云う諢名もある。鍾馗と云うのは、容貌《ようぼう》が醜怪だから言うのだ。当今の詩人では李商隠《りしょういん》を除いて、あの人の右に出るものはない。この二人に段成式《だんせいしき》を加えて三名家と云っているが、段はやや劣っている」と云った。
それを聞いてからは、妓等が令狐の筵会《えんかい》から帰る毎《ごと》に、玄機が温の事を問う。妓等もまた温に逢《あ》う毎に玄機の事を語るようになった。そしてとうとうある日温が魚家に訪ねて来た。美しい少女が詩を作ると云う話に、好奇心を起したのである。
温と玄機とが対面した。温の目に映じた玄機は将《まさ》に開かむとする牡丹《ぼたん》の花のような少女である。温は貴公子連と遊んではいるが、もう年は四十に達して、鍾馗の名に負《そむ》かぬ容貌をしている。開成の初に妻を迎えて、家には玄機とほとんど同年になる憲と云う子がいる。
玄機は襟《えり》を正して恭《うやうやし》く温を迎えた。初め妓等に接するが如き態度を以て接しようとした温は、覚えず容《かたち》を改めた。さて語を交えて見て、温は直に玄機が尋常の女でないことを知った。何故《なぜ》と云うに、この花の如き十五歳の少女には、些《ちと》の嬌羞《きょうしゅう》の色もなく、その口吻《こうふん》は男子に似ていたからである。
温は云った。「卿《けい》の詩を善くすることを聞いた。近業があるなら見せて下さい」と云った。
玄機は答えた。「児《じ》は不幸にして未《いま》だ良師を得ません。どうして近業の言うに足るものがありましょう。今|伯楽《はくらく》の一顧を得て、奔※[#「足へん+是」、第4水準2−89−42]《ほんてい》して千里を致すの思があります。願わくは題を課してお試み下さい」と云ったのである。
温は微笑を禁じ得なかった。この少女が良驥《りょうき》を以て自ら比するのは、いかにもふさわしくないように感じたからである。
玄機は起《た》って筆墨を温の前に置いた。温は率然「江辺柳」の三字を書して示した。玄機が暫《しばら》く考えて占出《せんしゅつ》した詩はこうである。
[#ここから5字下げ]
賦得江辺柳
[#ここから2字下げ]
翠色連荒岸《すゐしよくくわうがんにつらなり》。 烟姿入遠楼《えんしゑんろうにいる》。
影鋪秋水面《かげはしうすゐのおもてにのべ》。 花落釣人頭《はなはつりびとのかうべにおつ》。
根老蔵魚窟《ねはおいてぎよくつかくれ》。 枝低繋客舟《えだはひくくきやくしうつながる》。
蕭々風雨夜《せうせうたりふううのよ》。 驚夢復添愁《ゆめよりさめてまたうれひをそふ》。
[#ここで字下げ終わり]
温は一|誦《しょう》して善《よ》しと称した。温はこれまで七たび挙場に入った。そして毎《つね》に堂々たる男子が苦索して一句を成し得ないのを見た。彼輩《かのはい》は皆遠くこの少女に及ばぬのである。
此を始として温は度々魚家を訪ねた。二人の間には詩筒《しとう》の往反《おうへん》織るが如くになった。
――――――――――――――――――――
温は大中元年に、三十歳で太原《たいげん》から出て、始て進士の試《し》に応じた。自己の詩文は燭《しょく》一寸を燃《もや》さぬうちに成ったので、隣席のものが呻吟《しんぎん》するのを見て、これに手を仮《か》して遣《や》った。その後挙場に入る毎に七八人のために詩文を作る。その中には及第するものがある。ただ温のみはいつまでも及第しない。
これに反して場外の名は京師《けいし》に騒いで、大中四年に宰相になった令狐綯も、温を引見して度々筵席に列せしめた。ある日席上で綯が一の故事を問うた。それは荘子《そうし》に出ている事であった。温が直ちに答えたのは好《い》いが、その詞《ことば》は頗《すこぶ》る不謹慎であった。「それは南華に出ております。余り僻書《へきしょ》ではございません。相公《しょうこう》も※[#「燮」の「又」に代えて「火」、第3水準1−
前へ
次へ
全8ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング