魚玄機
森鴎外

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)魚玄機《ぎょげんき》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)平生|粧《よそおい》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「さんずい+宛」、第4水準2−78−67]《けが》すを

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)しやく/\たる
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 魚玄機《ぎょげんき》が人を殺して獄に下った。風説は忽《たちま》ち長安人士の間に流伝せられて、一人として事の意表に出でたのに驚かぬものはなかった。
 唐《とう》の代《よ》には道教が盛であった。それは道士等《どうしら》が王室の李《り》姓であるのを奇貨として、老子を先祖だと言い做《な》し、老君に仕うること宗廟《そうびょう》に仕うるが如《ごと》くならしめたためである。天宝以来西の京の長安には太清宮《たいせいきゅう》があり、東の京の洛陽《らくよう》には太微宮《たいびきゅう》があった。その外《ほか》都会ごとに紫極宮《しきょくきゅう》があって、どこでも日を定めて厳かな祭が行われるのであった。長安には太清宮の下《しも》に許多《いくた》の楼観がある。道教に観があるのは、仏教に寺があるのと同じ事で、寺には僧侶《そうりょ》が居《お》り、観には道士が居る。その観の一つを咸宜観《かんぎかん》と云って女道士《じょどうし》魚玄機はそこに住んでいたのである。
 玄機は久しく美人を以て聞えていた。趙痩《ちょうそう》と云わむよりは、むしろ楊肥《ようひ》と云うべき女である。それが女道士になっているから、脂粉の顔色を※[#「さんずい+宛」、第4水準2−78−67]《けが》すを嫌っていたかと云うと、そうではない。平生|粧《よそおい》を凝《こら》し容《かたち》を冶《かざ》っていたのである。獄に下った時は懿宗《いそう》の咸通《かんつう》九年で、玄機は恰《あたか》も二十六歳になっていた。
 玄機が長安人士の間に知られていたのは、独り美人として知られていたのみではない。この女は詩を善《よ》くした。詩が唐の代に最も隆盛であったことは言を待たない。隴西《ろうせい》の李白《りはく》、襄陽《じょうよう》の杜甫《とほ》が出て、天下の能事を尽した後に太原《たいげん》の白居易《はくきょい》が踵《つ》いで起って、古今の人情を曲尽《きょくじん》し、長恨歌《ちょうこんか》や琵琶行《びわこう》は戸ごとに誦《そら》んぜられた。白居易の亡くなった宣宗《せんそう》の大中《たいちゅう》元年に、玄機はまだ五歳の女児であったが、ひどく怜悧《れいり》で、白居易は勿論《もちろん》、それと名を斉《ひとし》ゅうしていた元微之《げんびし》の詩をも、多く暗記して、その数は古今体を通じて数十篇に及んでいた。十三歳の時玄機は始て七言絶句を作った。それから十五歳の時には、もう魚家の少女の詩と云うものが好事者《こうずしゃ》の間に写し伝えられることがあったのである。
 そう云う美しい女詩人が人を殺して獄に下ったのだから、当時世間の視聴を聳動《しょうどう》したのも無理はない。

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 魚玄機の生れた家は、長安の大道から横に曲がって行く小さい街にあった。所謂《いわゆる》狭邪《きょうしゃ》の地でどの家にも歌女《かじょ》を養っている。魚家もその倡家《しょうか》の一つである。玄機が詩を学びたいと言い出した時、両親が快く諾して、隣街の窮措大《きゅうそだい》を家に招いて、平仄《ひょうそく》や押韻の法を教えさせたのは、他日この子を揺金樹《ようきんじゅ》にしようと云う願があったからである。
 大中十一年の春であった。魚家の妓《ぎ》数人が度々ある旗亭《きてい》から呼ばれた。客は宰相|令狐綯《れいことう》の家の公子で令狐※[#「さんずい+高」、195−7]《れいこかく》と云う人である。貴公子仲間の斐誠《ひせい》がいつも一しょに来る。それに今一人の相伴があって、この人は温姓《おんせい》で、令狐や斐に鍾馗《しょうき》々々と呼ばれている。公子二人は美服しているのに、温は独り汚れ垢《あか》ついた衣《きぬ》を着ていて、兎角《とかく》公子等に頤使《いし》せられるので、妓等は初め僮僕《どうぼく》ではないかと思った。然《しか》るに酒|酣《たけなわ》に耳熱して来ると、温鍾馗は二公子を白眼に視《み》て、叱咤《しった》怒号する。それから妓に琴を弾かせ、笛を吹かせて歌い出す。かつて聞いたことのない、美しい詞《ことば》を朗かな声で歌うのに、その音調が好く整っていて、しろう人《と》とは思われぬ程である。鍾馗の諢名《あだな》のある于思※[#「目+于」、第3水
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